10.前夜祭

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10.前夜祭

 昇天するほどの音楽の感激と興奮を味わい、涙が出そうになるほど姉貴に感謝して皆にも感謝した後、全員で園子ママの『深海魚』に雪崩れ込んだ。ギャラリーのお客さんも一緒だ。 「しっかし驚いたわ、光樹はともかく、久紀がタンゴ踊れるなんて。それもさ、プロレベルじゃん。もうセクシーすぎて疼いちゃったわヨォ」  キッチンで忙しく料理の仕上げをしながら、園子ママがいつもの嗄れ声で感嘆の声を上げた。一同、それに倣って拍手。 「二人の踊りが、本当にあそこをブエノスアイレスにしちゃったんだから」 「ママの言う通りだよ、久紀さん。こちらがむしろ煽られた感じです」 「よく言うよ、京太郎は」  お代わりのビールを久紀さんに手渡すと、照れたように一気に煽った。  向かいに座る光樹さんは、ちょっと苛立ちげな顔をしている。ハイボールを手渡すと、これまたグビッと軽快に煽った。 「ありがと……久紀のヤツさ、高校の時、年上のタンゴダンサーと付き合ってたの。大学生だってウソついて」 「え、そうなの? 」  久紀さんの横でウーロンハイをちびちびやっていた和貴が楽しそうに、隣で照れている男前の顔を覗き込んだ。 「あの零れそうな乳とほっそいウエストと締まったヒップが堪んないってねぇ」  ああ……光樹さんの隣に密着している生島に適当な飲み物を出して、俺はそろりと霧生家のボックス席から後退った。 「でさ、そのドエロなタンゴダンサーの世界大会の相手役やらされて、ついでにみっちり夜のタンゴも叩き込まれちゃったのよねぇ」 「やめろよ」 「光樹さま、それで貴女もタンゴを会得されたと」  べったりと光樹さんの腕に寄りかかる生島に、今度は久紀さんが苛立たしげな視線を送った。 「あんな発情女に私が負けるわけないじゃん。それにしても生島くんのヴァイオリン、凄く官能的で素敵だったなぁ。こう、情欲を心の奥から引き出されるみたいな……もう踊らずにはいられなかった。久紀もよ、ね」 「けっ、知るか」 「僕のヴァイオリンは貴女の魅力に導かれて歌ったに過ぎません。世界のどんなタンゴダンサーも、貴方の前では霞むでしょう」  抱きしめそうに光樹さんに向かって伸び上がる生島を牽制すべく、ドンッと久紀さんがビールジョッキを乱暴に置いた。 「おい小僧、むやみに触るな。俺の弟だ」 「そうそう、ですよー。吹けば飛ぶですからぁ」 「光樹! 」 「どうせ乳なんかありませんよーだ」  もう、ただの痴話喧嘩である。  溜まらず和貴は久紀さんの隣から抜け出し、俺が飲み物を用意しているカウンターに逃げてきた。別テーブルでは、フルートの香織と友梨との女子連が、霧生兄弟を見ながらキャッキャと嬌声を上げている。温室育ちの彼女たちには刺激が強すぎるかもしれない。 「おまえら、この二人を基準にすると行き遅れるからな」 「やだぁ、連城サイテー」  はいはい、サイテーです。  グッチャグチャの騒がしさに苦笑していると、厨房に入っていた政さんが、あの病み付きナポリタンを作って俺たちに出してくれた。 「園子ママ一人じゃ大変ですから、今日は沙絵スペシャルをおねだりしてはいけませんよ。その代わり、これで我慢してください」 「我慢だなんて、いただきまーす! 」  和貴はフォークを握り直すのももどかし気に、ナポリタンに食いついた。ああ、何だか毒気が抜けたというか、元のスーパー坊っちゃまに戻ったというか、影が消えたというか……要は、スッキリした気がする。 「お腹すいちゃったんだ。なんかさ、随分長いこと、ご飯を食べてなかった気がする」 「バーカ、光樹さんに悪いぞ」 「うん……そうじゃなくて……食べなきゃ、って食べてたんだ。でも、今は食べたい。兄ちゃんのアップルパイも食べたいし、ピカタも食べたい。何だろう、メチャメチャ腹が減ったんだ。やばっ、政さん美味すぎるよ! 」  がっつく和貴を尻目に、俺はボックス席を振り返った。生島から貞操を守りながらも、光樹さんが嬉しそうに涙を拭くのが見えた。    ゴネる生島に、いたいけな女子大生のボディガードを任せて先に帰し、お客さん達もそれぞれ散っていき、久紀さんと光樹さんも二人で先に帰ることとなった。和貴は、夏輝さんが迎えに来るのだという。  凄まじい量の焼酎のボトルを外に出すべく、俺はビールケースを担いで勝手口から外に出た。仲通りから折れる一方通行で、一方は飲み屋が並び、一方は駐車場になっている。  ビールケースを置いて視線を走らせると、通りに面したスナックの室外機に腰を下ろした光樹さんに、久紀さんが覆いかぶさるようにしてキスをしている、絵葉書のように美しい二人の姿があった。  悩ましく溜息を漏らしていた光樹さんが俺に気付き、映画のワンシーンは終わってしまった。 「あは、見られちゃった」 「何言ってるんですよ、俺がどこで生まれたか知ってるでしょ」  すると、照れ臭そうに頭を搔く久紀さんの広い胸に頰をつけるようにしがみついて、光樹さんが蕩けたような目で捉えた。 「今日のタンゴのせいだよ」 「いや、和貴の為でしょ。あんなに想いを剥き出しに踊られて、和貴も俺達も、心を鷲掴みにされて全部引き摺り出されちゃいましたよ」 「そのせいで、こっちも自爆」  曝け出された想いは、刀を収めるようにはいかない。相手とぶつけ合わない限り、昇華することができないだろう。  光樹さんは、羽のような長い両腕に包まれるようにして抱きしめられた。  この二人もまた、今日の音楽に芯を揺さぶられたのだ。大事に押し隠していたものに振動が届き、今、それを共有している。 「ありがとう」  俺はそれだけ二人に言って、店の中に入った。  カウンターでは、和貴が顔を突っ伏して寝てしまっていた。 「スッキリした顔しやがって」 「これは、きっと大化けしますね」 「かなぁ……」  グラスを洗い終えた政さんが、冗談めいてカウンターをパタパタッと掌で軽快に叩いて見せた。 「ちょっと政ちゃん、ウチのはボロなんだから、壊さないでよ」  そんな憎まれ口を言いながら、ママは新しくハイボールを二つ、俺達に作って出してくれた。 「生島くん達がステージを下見したいと来てくれましてね、丁度京太郎くんがいる筈だから行ってみようと。そうしたら霧生兄弟とも五丁目の交差点でバッタリ会いまして。あの時はまだ、和貴君は暗い顔をしていましたね」 「そうこうするうちにさ、ジルベールから音がするって言うからさ、私も仕込み放り投げて行ってみたわけよ。ご近所誘って」 「ご近所って人数じゃなかったけど……」 「みんな音に吸い寄せられてきたのよ。しかも表のスピーカーのボリューム、テストしてなかったでしょ。あんた凄かったわよ音量が。帰りに隣のボギーのママに謝っておきなよ」 「げっ……」 「大丈夫よ。本当に素敵な時間だったから。きっと上手くいくわよ」 「ありがとう、ママ」  この園子ママには、足を向けては寝られない。        
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