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12.覚醒
そして迎えたオケ合わせ当日、午後からの合わせに備え、まずはアップ代わりに俺のオケ伴と合わせることにした。
俺自身、イベントの初日が無事に終わったおかげで少し気持ちに余裕が出たせいか、オケ伴の作り込みにも時間をより割くことができていた。
1楽章、出口の見えないトンネルの中で呻く声が木霊するかのような予感的な和声から始まる。和貴の繊細かつ確実な技術の見せ所だが、深遠な解釈無くしてこの音色を表現することはできない。
完璧だ。聞き手が吸い込まれるような、暗い響き。それでいて光を探そうと手を伸ばすかのような……で、オケのあのテーマが太く太く流れる。
alla marcheの部分、形も美しく、それでいて心で叫ぶような、浮きのないしっとりとした和音の掴み、素晴らしい。これぞ、霧生和貴だ。
その後に続く流線型のメロディは、俺の方が和貴の作った流れに重なるように染み込ませていく和声が続く。
そして1楽章ラスト、和音の連打。崩すことなく、はみ出ることなく、かと言って体裁だけに囚われた無為な羅列ではなく、己を光が見える出口へと引き上げるかのように鼓舞する強さを以って一気に弾ききる。
弾ききった和貴の横顔は、まだ集中が途切れていない。俺は呼吸を整え、そのまま2楽章に入った。
この辺り、生島がコンサートマスターだから、本番はもっと感傷的にリードしてくれるだろう。俺なんかよりもっと美しい波を生み出してくれる筈だ。
和貴の2楽章のテーマは、実に清楚だ。下手に捏ねくることもなく、歌いすぎて下品になることもない。等身大のままの、20歳の和貴のそのものが、飾ることなく歌われる。これが教授陣なら、歌い方が足りないだの、パッションだの、煩い注文をつけるかもしれない。だが、俺はこれで良いと思う、いや、これが欲しかった。
素の和貴は、意外と芯がぶれない。ソフトに見えて、人の意見はそう易々と取り入れない。自分が本当に納得しない限り、その考えを変えることはない。外見に似合わず頑固なのだ。あのコンクールの凱旋コンサート以来、その頑固さが消え失せていた。先生達の言われるがまま、右に左にと目標を失ったヨットのように漂い、完全に自分の音楽を見失っていたのだ。
続く3楽章は、こちらもヘビーなパッセージが続くため、気合が要る。まずは覚醒への足音のような和音を弱音で運んでいく。俺はこれが苦手でついポロポロ取り逃し、歯の欠けた和音になってしまう。が、この和貴にそんなヘタレな音は聞かせられぬとばかりに、小指の第一関節で鍵盤をがっちり掴んだ。
キタキタキター!!
中間部の雄大なメロディ。ここが俺は大好きだ。この曲のオケ伴で一番好きな部分と言っても良い。音楽を享受できる喜び、何より友と弾ける喜び、今の俺の幸せを具現化したかのようなこのパッセージを、俺は精一杯の愛を込めて弾いた。
ラスト、雪崩れ込むようなピアノの連打と、オケのTuttiによる分厚くキレのある和声の連続。シンクロするように縦が揃い、迷いを追い払った清々しいまでの余韻がこのレッスン室を包む。
「……おまえ、やっぱすげぇや」
顎を上に向けて息を乱しながら、やっと出た言葉がそれだった。
「京太郎……」
奴も隣で鍵盤の蓋に両手を預けるようにして顔を下に向け、ハアハアと息を乱していた。
「やっと、やっと見えたよ、僕……」
「見えてたんだよ、元から。ここんとこ、ちょっと寝コケてただけだって」
「今日初めて、この曲を弾くのが楽しいと思った。有難う、京太郎」
「昼飯食ったら、堂々と乗り込んで、遠山先生押し倒してこいや」
ぐだぐだと体を起こしてピアノの蓋を閉めながら、二人して笑った。
「京太郎らしいな」
「オケ合わせの前にちゃんと飯食ってけよ」
「わかってるって。今日は京太郎と一緒に一番良いランチを食べなさいって、夏輝兄ちゃんがお昼代くれたし」
ああ……流石、ガッツを挫く大甘兄貴。
「い、いいよ、おまえだけ食ってけよ。俺はたぬきうどん」
「ダメ。それじゃ後で兄ちゃんに怒られるもん。一緒に食べよ」
と押されると、すぐに覚悟が挫けるダメな俺。
「……ゴチになります。夏輝さんによしなにお伝えくだされ」
「承った。ねぇ、本番は控え室に一緒に入ってくれるよね」
「いや、それはどうかな。先生達が良いって言えば、だけど」
「じゃ、僕から言っとく」
「できれば客席で聞きたいんだけどなぁ。今日も、客席で聞いてるよ」
「じゃ、演奏の時だけ席に行ってよ。決まり。ね。Sランチ奢るからさぁ」
「奢ってくれるのは夏輝さんだろうが」
俺達は、夏輝お兄様の御厚意にとっても素直に甘えることにし、食堂で最高級のSランチを食べることにした。ハンバーグにエビフライに、ナポリタンにミニグラタンが付き、ライスとサラダとスープと、さらにプリンがついて、な、なんと、650円!! 貧乏節約音大生の俺には、超高嶺の花だ。何せこの食堂では280円のたぬきうどんしか食ったことがない!
しかもおばちゃんは心意気とばかりにライスをチョモランマ盛りにしてくれた。おい、合わせの前に大丈夫か? と心配したが、奴は涼しい顔でぺろりと平らげた。
さぁ見せてやれ、我が友よ!
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