真夏の夜の夢・2

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真夏の夜の夢・2

 遠山先生が思わず指揮棒を落としそうになる程、和貴はオケ合わせでその場の全員を圧倒した。チケットの販促に腰が引けていた事務局は俄然張り切りだし、チラシを増刷して撒き散らすという。  和貴のSNSでの不評は思いのほか尾を引き、チケットの売れ行きは鈍かった。俺も、五丁目や二丁目で宣伝し、チラシを撒いた。    和貴の懇願によって、俺はリハーサルからみっちり立会い、ついでに舞台監督を務めることとなってしまった。依頼していた講師の先生が倒れたとかで、リハーサルの段取りからしてもう無茶苦茶になっていたのを、見るに見かねてつい、手を上げてしまったのだ。 「祝典序曲が終わったら、パーカスの並び替えと、金管の椅子を増やします。 あ、生島、今日弦で休みいる? 」  すると、髪の毛をキザにセットした生島が、ステージ上で例のごとくキザに調弦しながらキザにこちらを見た。 「いや、いない。ただ照明がちょっとキツすぎて譜面が反射する」 「わかった、調整する」  インカム越しに照明さんにスタンバッてもらい、明かりの具合を調整する。だが一箇所弄るとウチもウチもと注文がくる。キリがないので、ピアノ以外はそこそこに手を打ったふりをして誤魔化した。それに気づいている生島は、ニヤニヤとこちらを見ていた。 「おまえさ、リハの時ちょっと地味じゃなかった? 」 「ああ、1楽章? もっとやった方がいい? 」 「2はあれくらい清楚な方が却って綺麗だけど、1楽章の立ち上がりは、まだファーストの食いつきがちょっと鈍いみたいだから、上げ目でいいんじゃね」 「成る程な。軌道に乗ったら少し地味目にするか」 「そんな感じ」  生島とは、こんな短いやり取りで全てが理解できるようになっていた。このくらいポンポンとキャッチボールができると、本当に現場が心地いい。 「3楽章は? 」 「悶え死ね」 「了」  憎らしいくらい、こいつの腕は確かだと、改めて思った。短い間に、生島の後ろに並ぶ弦セクションのピッチもボーイングの動きもよくシンクロし、音色がどんどん洗練されてきている。多分、他所から来た人は指揮者の腕だと思うだろうが、弦に関しては、生島のリードによるところが大きい。  だからこそ、秋の定演で、こいつはメンデルスゾーンのコンツェルトのソリストを務めることが決まっている。至極順当な人選だと思う。  客入れの前に、ご来臨賜った学長先生や主だった首脳陣への挨拶を済ませ、ステージ上のセットの配置を確認した。受付から、当日券の売れ行きが想定以上で混み合い、まだロビーが混雑しているとのことだったので、独断で五分押すことにした。それをまた各控え室に走って報告し、開演五分前に鳴らす予ベルの合図出しのため、インカムをつけた。 「あれ、アナウンスさんは? 」 「さっきいましたけどね」  照明さんと顔を見合わせ、時計を見て顔面蒼白になりながら辺りを探るが、それらしい気配はない。 「仕方ない、予ベル、5、4、3、……」  ブーッと心地の良くない音が会場中に響き渡る。ここで、アナウンス嬢の綺麗な声が響くはずだが、誰もいない。 「俺、やります」  俺の声で黙らせてやる、とばかりに、演奏中の席の移動や会話、携帯電話の電源を落として絶対に音を鳴らさないように、と、ルール破ったら殺すぞテメェくらいのドスを効かせてアナウンスをした。  終わった頃に、慌ててアナウンス嬢が戻ってきた。 「すいません、時間勘違いしてて……」 「大丈夫ですよー」  と彼女の顔は一切見ずに無機質に答え、俺は会場の入り具合を確認した。  モニター越しに、あの霧生家の3人が緊張の面持ちで客席にいる姿を見つけた。今日は普通のスーツ姿だが、やはり華があるというか、目立つ。  チケットの売れ行きは鈍いと聞いていたが、二階席までキッチリ埋まり始めている。これはいい。会場の熱気も、演奏者を高揚させる栄養剤になる。 「本ベル、いきます」  五分押しで、開演を知らせるベルが鳴り、客席は静寂に包まれた。  まずはチャイコフスキーの祝典序曲1812年だ。  屋外で演奏される時など、実際の大砲を使用されたことがある逸話を持つこの曲は、血の気の多い学生が弾くにはピッタリだ。今回は勿論大砲など使用しないが、代わりにバスドラムが大砲を模倣して演奏する。それらしく聞こえるかどうかは、打楽器科の手腕による。リハではびっくりするほど大砲にそっくりで、さすが打楽器科のエースである星くんの腕だと感心した。  本番、ちょっと興奮気味の遠山先生の煽りにも動ぜず、Aオケはまずまずの立ち上がりで会場を盛り上げた。 「休憩15分でお願いします」  チューニングで手間取り、ちょっと押していた。20分取るのは難しい為、基本15分で様子次第で開けることにした。  和貴の控え室をノックし、そっと中を覗いた。  鏡に向かって丁寧に体をストレッチしている和貴の蝶ネクタイが、自由奔放に曲がっていた。 「休憩15分で行くぞ。ほらネクタイ」  なすがままに直されながらも、和貴が口元を歪めてクスリと笑った。 「さっきのアナウンス、京太郎でしょ」 「え、まぁな」 「喧嘩売ってた」 「いいんだよ。和貴の演奏中に携帯の一つも鳴らしやがったらブッ殺す……後ろで聞いてるからな」 「うん」  俺は和貴を抱きしめ、背中を叩いた。和貴も俺の背中をポンポンと叩いた。おまえならやれる、僕ならやれる、そんな言葉を心の中で同時に交わした。  後半のベルが鳴った。  オケの連中が舞台に出て、最後に花のコンサートマスターこと生島が出る。袖から出るときに軽く腰を叩いてやると、奴はキザにウインクしてスターのように出て行った。 「遠山先生、お願いします」  生島による華麗なチューニングが終わったのを見計らい、緊張の面持ちの遠山先生を送り出した。最後に和貴だ。遠山先生のお辞儀と誘いの仕草を待って、俺は和貴を袖の際に立たせ、背中を押した。 「行ってこい」 「うん」  強い光に満ちた目でしっかりと頷き、奴は顔を真っ直ぐに上げて舞台に出て行った。  針が落ちても分かる程の静寂の中、あの、底の知れない闇の中でもがくような和音が、凪のように会場を埋め尽くした。  音の反響で返り血を浴びるように、和貴は一つ一つ、丁寧に紡いでいく。  そしてオケのテーマが重なる。流石に生島だ、程度を心得ている。大きなうねりに後輩たちが付いてくるのを待って、表現を品良く落ち着かせている。非常によく整理され、情緒に満ちた弦セクションのレガートは秀逸である。  その後の細やかな高音のパッセージも完璧に弾き、和貴はラフマニノフを降臨させたかのように縦横無尽に表現を織りなしていく。奴だ、奴の言葉だ。 「凄いっすね……リハの時より、圧倒されすぎて泣きそう」  照明スタッフさんが、インカムを取り外してそう呟いた。  俺はもう、とっくに泣いている。全部心を持っていかれてる。  危うく泣きながら気絶しそうになったが、2楽章の手前でほんの少しだけ照明を上げるよう指示し、インカムを外した。ここからは怒涛だ。  2楽章の切ないようなクラリネットのメロディ。ドイツ帰りの沢田菜摘の歌い方には品がある。生島はハーモニーに細心の注意を払い、広がりのある和声を静かに紡ぐ。和貴に触発されたのは俺だけじゃない。オケ全員が、圧倒的な音楽力に煽られ、飲まれ、隠していたものを引きずり出されていた。  あの生島が、本気で髪を振り乱して弾くのを初めて見た。  そして怒涛の3楽章。  オリエンタルな響きすら感じるあの大きなテーマは、会場にいる全員を希望という海原に誘った。一糸乱れぬTuttiも素晴らしく、殆どミスタッチらしいミスタッチもなく集中し続ける和貴の鬼気迫る演奏は、息をすることすら忘れてしまう。ラスト、冒頭と同じアルペジオが一段光を増して再登場してからの怒涛の和音の連続。深く、大きく、熱く、ピアノという楽器からこんなにも密度の濃い音色が響くのかと驚くほどに、和貴は心体を駆使して弾き続けた。  この瞬間に立ち会えた事を、幸せに思う。  こんなに素晴らしい仲間たちと音楽を共有できる事を、幸せに思う。  友の完全なる復活を、本当に嬉しく思う。  あの雪崩のような連打と、会場が揺れるほどのTuttiの連続で、荘厳で光と希望に満ちたフィナーレが会場を震撼させた。  数秒間、誰もが空気を振動させたままの余韻に我を忘れていた。 「ブラーヴォ! 」  誰かの一声をきっかけに、地鳴りのような拍手が沸き起こった。  地明かりを上げる指示も忘れ、俺は涙でぐしょぐしょになったまま拍手をした。友に、親友に。最大の感謝と敬意を込めて。  晴れやかな顔で袖に帰ってくる親友を、俺は両手を広げて迎えた。和貴も、両手を広げて飛び込んできた。  無言で抱き合い、俺は和貴を讃えた。誇らしい親友の、不屈の闘志を心から讃えた。  カーテンコールは20分続いた。和貴は先生と握手した後、生島を立たせ、抱擁を交わした。あの生島が感極まって口を震わせる姿を、初めて見た…。    ほんの1時間前まで狂乱の渦にあった舞台は、やっとピアノが捌け、ただの板の間に戻っていた。飾り気のないただの地明かりの下から、俺は客席の残像を見つめていた。  俺がここに立つ事はない。だが、親友が与えてくれたあの感動は、間違いなく俺を満たしてくれた。  俺の立つべき場所は、他にある。 「京太郎君」  優しい声が、袖から俺を呼んだ。そこには、スーツ姿の政さんがいた。 「帰りましょう」  そうだ。この人がいる場所に、俺は帰れば良いのだ。 「調光室に挨拶に行ったら、すぐ出るよ」  政さんは頷いた。その優しい微笑みを見たら、俺を保ってくれていた芯棒がポキリと折れたような音がした。 「よく、頑張りましたね。和貴君も生島君も立派でしたが、私は、彼らをここに立たせた君を、誰よりも誇りに思います」  俺は政さんの胸に飛び込んだ。  ガキだ、俺はやっぱり。    
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