14.エピローグ

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14.エピローグ

 狂乱の演奏会の後、和貴は千堂先生が紹介してくれたエージェントとマネージメント契約を結んだ。学業優先で、スパンを詰めずに地道に活動する事を条件に、再びプロのコンサートピアニストへの道を歩き出した。8月に入ったと同時に、最初の公演先の上海へと飛んでいった。  渡辺千紗もこの夏にイタリアへ飛び、国際コンクールの本選に挑んでいる。  生島も、夏休みを使ってアルゼンチンに飛んだ。誰もが驚いたが、ヤツは元々、タンゴがやりたかったのだと言う。ただ、成績優秀で周りの期待も大きく、ソリストとしての期待を撥ね除ける勇気が無かったのだそうだ。  納得だ。ヤツの音の色気はクラシックには勿体ない。タガが外れたように、きっと暴れてくる事だろう。  また、静かな日常が戻ってきた。  カウンターでは政さんが仕込みに余念がない。俺は、病みつきナポリタンを頬張りながら、今日のプログラムを組み立てる。 「生ビールの樽、少し追加しとくかな」 「そうですね、この暑さですから。あ、光樹さんが夏の試作品だと言ってゼリーを置いていかれました。冷菓子として、良いかもしれません」 「あの人今、例の香水ブランドのモデル、また引き受けて忙しいんじゃなかったっけ」 「撮影は日本でのみ、という条件で受けたのだとか。和貴君に触発されたのだそうですよ。泣いて喜ぶほどデザイナーが惚れ込んでいるというのですから、遅咲きだなんて言わずに、頑張ってほしいものです」 「世界的美貌と底知れぬ才能、か」 「ええ、正に底知れぬ方です」  政さんが出してくれたゼリーは、ヒンヤリとして、それでいてちょっと酸味のあるグレープフルーツ味だった。 「さっぱりしていて美味しい。酒の後にもいいな、これ」  でも、注文したら、あの人の折角の跳躍を台無しにしてしまうかな。 「注文書も頂いてますから。そんなに遠慮しなくて大丈夫ですよ」  俺の性格まで見越して、本当に底知れぬ人だ。  ここは『スナック・沙絵』  姉貴の青春時代と引き換えに買ってくれた白いグランドピアノで、俺は今日もショパンを弾く。  だが、今はここに集う友がいる。  世界に散っているとしても、必ずここに戻ってきて音楽を分かち合える、心で繋がった仲間がいる。そして俺も、ここで根を張りながら、世界で勝負する友に心からのエールを送る。  そして、カウンターから俺を優しい眼差しで見守ってくれる政さんがいて、空から俺のピアノを聞いてくれている姉貴がいる。  ここは新宿五丁目にある『スナック・沙絵』  優しい街にある、優しい姉貴の店である。          新宿沙絵2・了                
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