35人が本棚に入れています
本棚に追加
2.絵島生島ヴァイオリン
親友はもう、手の届かないところに行ってしまった……CDショップでは、コンクール3位記念盤と称する和貴のCDが早くも並べられていた。はにかんだスーパー坊ちゃん面のジャケット写真は滑稽だが、本選の演奏を全て網羅しているそのCDを、俺も一枚買おうと手を伸ばした。
「おや、失礼……あ、連城君」
同時に手を伸ばしてきたのは、同学年のヴァイオリン専攻の男だった。確か生島悠次郎とか言ったか、歌舞伎の演目に出てきそうな名前で、楽器を背負っている立ち姿もそんな演目通りに女子を虜にしそうな男ぶりである。
まぁ、あの霧生三兄弟を見慣れているせいか、特段気を引かれるものではなかったが、CDの上で手を握られ、危うく奴を頭突きしそうになった。
「オケ伴、良かったよ。やっぱタフな手をしてるんだな」
うるっせぇ、と突き放し、さっさとCDを買って通りに出た。
実は留守の間、『スナック沙絵』の音楽を守っていたのは、この男のヴァイオリンだったのだ。
人選は慎重を極めたつもりだった。声楽科の渡辺千紗と、ピアノは千堂門下の3年である金山友梨に声をかけ、快諾してもらった。ただ、千紗も春休みはオーディションにオペラ研修にと忙しく、もう1組おさえておきたいと思っていた所、友梨が以前伴奏をしたことがあると言って連れてきたのが生島であった。友梨の他にもう一人ピアノと、同学年のフルートの浅見香織にも声をかけ、何人かで店のステージを回してもらうこととなったのであった。当初は10日間程の予定だったが、政さんと夏輝さんとの画策により、トータル3週間近い日程が組まれていた事を知ったのは、コンクールのレセプションが終わった後のことであった。
だが、やはり風土というのは何よりも如実にいろいろな事を教えてくれる。食べ物、天候、街並み……モーツァルトやヴェルディ、そしてリスト……他にも錚々たる作曲家達を育てた空の下は、俺の五感に沢山の栄養を注ぎ込んでくれた。
それは、新宿五丁目通りの古びたビルの一間にある『スナック沙絵』のピアノの前に座っても、決して褪せることはない。
ただ、今目の前には、ピアノを取り囲むカウンター席の天板に腰を引っ掛け、顎先でヴァイオリンを挟んで調弦する男がいて、俺の五感を大いに苛立たせている。
洗濯してたの羽毛のようにサラサラと散らした髪もキザで、長身痩躯に涼しげな完全醤油顔もキザで、白いボタンダウンのシャツを第二ボタンまで惜しげなく寛げているのもキザで、生島悠次郎などという名前すらキザな男。
「Aをくれ給え」
はい王子様、とばかりにコーンと響かせてやる。あれ、ちょっと揺らいでるかな……倍音を鳴らして周波の重なりを確かめると、やはり少し真ん中の音域が不安定になっている。
「ああ、友梨はタッチが強いんだよね。多分それでここんとこ富に揺らいでるんじゃない? 流石に連城君は耳がいいね」
こんな言い方もキザで、フッと笑いながらあっという間にピッチを揃えた。
生島が出るようになってから、メンデルスゾーンのヴァイオリンコンツェルトはウチの大ヒットナンバーになっている。あの哀愁漂う出だしのメロディーを涼しげな王子様が眉根を潜めて長い睫毛も卑猥な瞼を伏せながら奏でる姿が何とも悩ましく美しいの、とは同じ町内でクラブを経営する茉莉子ママの言葉で、こいつを『絵島生島ちゃん』と呼んで気に入っている。
「やっぱ流石だね。弦の流れを全く阻害しないタッチが心地いいよ。僕の音色には伴奏もこのくらい繊細さがないと」
「さいですか」
こっちはさんざんブウたれながら弾いていたが、一楽章を合わせたところで生島が振り向きながらそう言った。そう、その振り向き方すらキザなのだ。
「悔しいが、おまえのピッチも音色も一流だ。次のお前の当番までには調律いれとくよ。今日はすまん、このままで」
一般的なピアノの調律は、1オクターブを無理くり12に割って音階を作った、言わば『平均律』だ。唯一自分で自分の楽器を調律できないピアノ科の連中は、実は音感が然程敏感ではないとも言われたりする。弦の連中でも特に生島のようにチューナーを一切使わずにチューニングできる奴は、耳の悪いピアノ科を鼻で笑ったりする。
「ピアノ科でも分かるのは君くらいだろ。僕の耳が鋭敏なだけだから」
はいはい、と生返事をして、興が削がれた俺は譜面を畳んだ。
生島がコンビニに行くと言い出して楽器をケースに置いた時、店のドアチャイムが鳴って光樹さんがやってきた。
「来たよー」
あのコンクールでのレセプション以来、光樹さんはミラノのトップブランドのデザイナーに惚れ込まれ、香水のポスターに抜擢されていた。こちらに背を向ける裸の大男の肩にもたれるように、ばっちりメイクでこちらを向いて扇情的な表情をしている、あれだ。ほんの微かに光樹さんの半身が男の腕越しにはみ出していて、光樹さんが顔の美しさとは裏腹に男性だということが表されている。ジェンダーレスで艶めく香り、がコンセプトなのだとか。ポスターは世界的にSNSなどでも評判になったが、光樹さんは全くと言って良いほど頓着していなかった。
「今日はスイーツの日でしょ、はい、アップルパイ」
「いつも有難うございます、光樹さん。すごく人気があるんだよ」
「あら嬉しい。京太郎と政さんの分は別にしてあるからね」
「マジで? 有難う! 」
ここのところ、酒を飲まない客層も増えたため、試験的に週に数日、夜でもスイーツを提供する日を設けてみた。光樹アップルパイの評判はすこぶる良く、お陰様で女性客や、お姐さん達の同伴客も増えてきていた。
「さぁどうぞ、一服なさってください」
「有難う、政さん」
今日は化粧っ気もなく、パーカーにジーパンというラフな出で立ちで、入り口のバーカウンターに座って政さんからコーヒーを受け取っている。それでも美オーラはダダ漏れで、女優の優雅なオフタイムにも見える。
「し、失礼……」
そんな光樹さんに、生島が声をかけた。というか、呆けたような顔で光樹さんに歩み寄り、うわ言のように呟いた。
「美しい……」
ああ? と地を丸出しにして光樹さんが振り返るが、生島はいきなり光樹さんの目の前に跪いた。
「あなたのような美しい方を探していました。今日は貴女の為に演奏します」
「え、いや、私は客じゃないので」
光樹さんが困ったような顔を俺に向けてきた。
「おい、生島、その人は和貴の……」
「お姉さまですよね」
光樹さんがコーヒーを吹き出し、政さんが派手にグラスを割った。ああ、と言いながら慌てて俺がカウンターの中に入って破片を掻き集めようとするのを、正気に戻った政さんが制した。
「おい生島、この人は和貴の……」
「こんな美しい方がお姉さまだなんて、あいつは何て罪作りなんだ」
「生島、話を聞け……」
固まる光樹さんの前で、生島は声を張り上げた。
「僕と、僕と付き合ってください」
手をかざしてハムレットさながらに告白する生島に、光樹さんは恐怖に慄くように口の端をピクピクさせながら席を立った。
「ご、ごめんなさい、私にはもう心に決めた方がおりますの! 」
オホホホ! と眉根を潜めたまま俺と政さんに目顔で辞去を訴え、逃げるように帰っていってしまった。
「あ、お待ちを、マイ・スウィートぉぉ!」
追いかけようと腰を浮かす生島を、流石に俺は引き止めた。
「だから、話を聞け。あの人は和貴の3番目のお兄さんだ」
「兄上……おかしな事を。姉上の間違いだろう、僕を謀るか」
「兄貴なんだって。あんなに綺麗だけど、あの人が本気で戦えばその辺りのヤクザなんか束になってかかっても勝てない相手だぞ。第一、離れたら死んじゃうくらいに想い合っている人がいる」
「何だとぉぉ!! 誰だ、そいつは、男か! 」
「男、って……まぁ、男だけど。そっちはそっちで、滅法強い。お前みたいな貴族のボンボン気取ってる青二才なんざ一捻りだぞ」
「くそう……決闘を申し込むしかないか……」
ここにも変態がいた。
それも、滅法話のわからない、変態の最終進化系がいた……。
最初のコメントを投稿しよう!