3.プロとは

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3.プロとは

 ここ二日、学校で和貴の姿を見なかった。忙しいのだろうとは思っていたが、もう五月の連休も明け、コンサートツアーも落ち着いた筈だ。学業優先という契約になっている筈だし、和貴はああ見えて夏輝さんにも似てクソ真面目なところがある。特に教職課程には力を入れていた筈なのに。 「連城くん」  ああ、今は顔見たくなかったなぁ……と思っていた生島に、授業の終わった教室から出たところで出くわしてしまった。というか、待っていたようにしか見えない。  生島は俺の肩を抱くようにして背を丸め、柱の陰に誘った。 「何だよ」 「知らないのか、SNSの記事」 「ン? 」  生島はスマホをいじり、ある記事を俺に見せた。和貴の演奏中の写真と共に掲載されている記事の見出しは、 『磨り減らされる才能・早くもメッキが剥がれたか』  どうも連休最後の方のコンサートでは、内容がふるわなかったらしい。記事によると、目玉であるコンツェルトの出来は散々で、音楽性に目を見張るものもなく、これなら中学生でも弾けるだろうとの専門家の意見までご丁寧に並べられていた。 「これ……」 「日本の音楽事務所の中には、賞をとった数ヶ月で荒稼ぎして、本人をボロボロに壊すほど酷使して利用価値がなくなると放り捨てるような、酷なやり方をするところがあるらしい。見たまえ、プログラムだって組み方がメチャメチャだ。霧生くんの場合、見栄えもするから、俄かファンもついてチケットの売れ行きは悪くなかった筈だから、打てるだけコンサートを打ったんじゃないかな。ツアーを組まされても練習する時間を確保してもらえず、今まで弾けたものを並べるしかなかったんだ」 「そんな……」 「連休最終日は台湾だった筈だから、帰国はしてるだろうけど……大丈夫か」  背の高い生島が俺の顔を覗き込んだ。ヤダァ、と女子のウザい声がするが、俺はもう、そんなことに意識を向けている暇はなかった。 「あいつの家に行ってくる」 「今日、店のステージは僕が弾こうか」 「大丈夫か? だが、友梨はバイトだって言ってたから、一人ステージだぞ」 「僕一人の魅力で十分さ。心配するな」 「……わかった、政さんには連絡入れておく。悪いな」  おまえの方がよほど心配だが……なるべく店の時間に間に合わせて帰れるようにしようと心に決めつつ、俺は駅へ向かって走り出した。  新宿で手土産を買う間も惜しく、俺は小田急線に飛び乗った。  インターホンを押そうかどうしようか迷っていると、例のごとく、Tシャツにダメージデニムという姿の光樹さんが、クラシックなオレンジやピンクなど、ヴィクトリア調のインテリアに似合いそうなバラをブーケにして持ったまま、庭から駆けてきてくれた。 「こんにちは……すみません、突然」 「何言ってんの、京太郎はVIPなんだから、上がって上がって」  光樹さんに背を押されるように、俺は重厚な木目の扉の奥に滑り込んだ。  広い玄関は、床が大理石になっていて冷んやりと涼しい。それと相待って、開いたままの玄関横のレッスン室の扉が、坂道を歩いてきて汗ばんでいる俺を、瞬時に冷やしてくれた。レンタルスタジオなどに使われているグレモンハンドルの扉が廊下を塞ぐように開け放たれたままだと、何か放り出されたままの廃墟のようにも感じられて、心がチクリと痛む。 「やぁね、開けっ放しで」  光樹さんが俺の視線を感じて慌てて閉じてしまった。  中には、入賞の賞金で買ったもう一台のグランドが入り、都合2台が横並びにレッスン室のように並んでいる筈だ。元々12畳はあろうかという部屋なので、ピアノ2台にパソコン用デスク、ゲスト用の椅子とソファセットを置いたところで、まだまだ余裕がある。  Shigeru Kawaiにしたいと言っていたが、結局どうしただろうか。 「さぁ」  覗くこともできぬまま、俺はリビングに入り、勧められるままにソファに腰を下ろした。南雲梨華の事件の時にボロボロになった窓やら内装やらは完璧に直っており、今度は緑を基調とした植物柄の艶やかなボックスプリーツのカーテンが両端に纏められていた。  庭を見通すスクリーンのような壁面全体のガラス窓の向こうで、和貴がバラの剪定をしているのが見えた。驚くことに、夏輝さんも一緒である。 「もっと驚くよ。もうすぐ久紀も帰ってくる」 「え、じゃあ俺、失礼します。約束もなく来ちゃったし、家族水入らずの方がいいから……」 「何言ってんの、大恩人を返したらアタシ切腹するようだわよ」  芝居がかった言い方をして微笑んだ光樹さんが、ケーキと紅茶のポットをトレーに乗せて、俺の横に座った。 「チョコのミルクレープ。試作品だけど、どうかな」  う、旨そう……そうじゃなくて、と、俺が立ち上がりそうになるのを、光樹さんがそっと肩を押さえて留めた。 「有難う、心配してきてくれたんだよね。あの子、以外に切り替え早いけど、でも内心ボロボロよ。帰国してからピアノは全然触っていない。心配した兄さん達、腹痛だの風邪だのって良い加減なこと言って休み取っちゃったの、アホでしょ。何にもできないのにね、俺たちには」  俺……そう言った光樹さんの横顔に、いつものヴェールはなかった。隠すことのできない真情が、心配が、無邪気にはしゃぐ和貴へと向けられている。 「そういえば、沙絵ママって、京太郎のレッスンに付き添われたことある? 」  紅茶にカップを注ぐ仕草も優雅に、光樹さんが唐突にいつもの美しい笑顔のヴェールを纏って尋ねてきた。 「はい、受験前に一度だけ、武蔵澤の教授に見てもらえることになった時に、挨拶を兼ねて」 「で、何かおっしゃっていた? 」 「何か、というより、先生のお宅からの帰り、辿り着いた最寄駅のトイレで吐いてました」  すると、やっぱりー! と光樹さんが手を叩いて歓声を上げた。 「私もよ。和貴が偉い先生に見てもらえるなら、ご挨拶をと思ってついて行って……凄いよね。一音一音ダメ出しされて、私なんか何が違うのかさっぱりだけど、ペダルでもなんでも先生の指摘は細かくて。でもあの子、ちゃんとそれを理解して、先生のお手本から拾ってるのよね、回転レシーブ並みに。ええ、あの表現で伝わるかぁ? ってくらいのさ、宇宙の言葉みたいなのを連発してるのに、和貴は拾ってるのよ、一瞬で。こいつら化け物かと思ったわ」 「化け物って……」 「で、私は家に着いて吐いたわ」  思わず二人して笑ってしまった。 「姉貴も同じこと言ってたな……何言ってるのか、私、全然わからなかったのに、京ちゃんったら平気な顔して頷いているんだもーん、て」  姉貴を真似ると、光樹さんは腹を抱えて笑った。でしょー、と。 「だからさ、あんた達は凄いのよ。でも、私たち凡人にはさっぱりわかんない……兄さん達が束になったって、京太郎の言葉には敵わない。ピアニストには、ピアニストにしかわからない事、ある筈でしょ」  ピアニスト……俺がそう呼ばれて良いのか、自分をそう称して良いのか、未だにわからない。ピアノ弾き、それが俺で、和貴こそがピアニストだと思う。 「和貴のレベルのことなんか、わかんないよ……」  すると、光樹さんがケーキを俺の前から取り上げた。 「お預け」 「はい? 」 「あんた時々そういうつまんないこと言うんだけどさ、京太郎にはファンがいるじゃん。あの街で、京太郎のピアノを聞く為だけに、時間とお金と労力を使って聞きに来る人がいる。そんな人達に、そんなこと言えるのか? お金を取って演奏している以上、プロだろ。食べる為に、腹括って弾いてる筈だろ」  こんなに言葉を強めて何かを言われたことはなかった。 「君は凄い。完璧にお客様を満足させて、気持ち良く帰している。その日のコンディション次第で素人にもそうと解る失態をする和貴は、まだまだプロには程遠い。エッジの効いた崖の上に立つ思いでステージに立つ君とは、覚悟も場数も違う」 「光樹さん…」  確かに、俺はそうありたいと思って、音大に行き、下手なりに技術を磨いてきた。客の好みや、あのステージの聞こえ方も研究して、心地良いように工夫することに手を抜いたりはしない。それに……。  姉貴が帰ってこないことがハッキリしたあの日から、俺は雇われピアニストではなくなった。『スナック・沙絵』のオーナーピアニストだ。  でも、だからCDが出せるような、世界を回るようなピアニストかといえば、間違ってもそうではない。 「和貴は、京太郎を尊敬しているよ」 「へぇぇ?! そんなバカな」 「なんでバカなの。和貴はまだアマチュア。でも君はプロ、プロなんだよ」  返す言葉がない。  俯いて、何と答えたら良いか考えあぐねていると、リビングの巨大なガラス窓を開けて、夏輝さんと和貴が入ってきた。 「やぁ京太郎、来てくれたのか」  夏輝さんはカジュアルスタイルだととても柔和で、息子と遊ぶお父さん……と言っては失礼だが、和貴と並ぶと殊更にそう感じる。兄貴という器では収まらない、この家の紛れもなき大黒柱なのだと、こんな柔らかな表情から思い知ることができるとは。  そして和貴は……俺を見るなり、泣いた。    
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