4.掃き溜めのプロ

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4.掃き溜めのプロ

 和貴の練習室に籠り、それぞれピアノの前に座った。和貴が座ったのは、かれこれ15年以上弾き込んでいるBoston。俺が座っているのは、店にあるのと同じShigeru Kawaiだった。 和貴が泣き終わった後も、俺たちは無言で黒いピアノを眺めていた。  ふと目線を上げると、壁一面が譜面用の書庫に作りつけられているその凄まじい在庫の中に、連弾の譜面が纏められている一角を見つけた。 「ハンガリー、久しぶりに弾くか」  ブラームスのハンガリー舞曲集。ドヴォルザークのスラヴ舞曲集と並んで、連弾の大御所と呼んでも過言ではない、名曲だ。 「僕、上? 」 「だな」  座っていた椅子を和貴の方に移動し、俺が低音域エリアに座り直した。  少し指慣らししている間に、和貴が譜面を幾つか取り出して持ってきた。 「ボストンか、いいな。タッチが軽いけど遊びがないからしっとり吸い付く」 「低音域も華やかだよ」  まずは1番から。何も言わず、フッと鼻でブレスをしたのを合図に、テンポも何もかも行き当たりばったりで弾いた。ダメ出しは無し。ただひたすら、連弾曲のネタが切れるまで、俺たちは弾き続けた。  初見の曲も、ジャズもアニソンも、手当たり次第に、弾いた。 「ああもう、筋がいっちゃう……」  和貴が根を上げた。  背もたれに体を預け、俺たちは天井に顎を突き出すようにして息を整えた。  流石にやりすぎたが、無心で弾くのも良い。気の合うヤツとだと、邪魔な段取りもなく、音の中で会話しながら微調整をしていくので、全五感と第六感の他に頭の毛穴を全部開くようにして相手とシンクロさせていける。  そこ、少し落ち着け。次のフェルマータは伸ばしすぎず、おまえの合図で出よう。好きに歌っていいぞ、もっと大らかに、俺の上に素直に乗ってけ。もっと抑えろ、Pの音を大事にしろ、俺が引っ込むから……とにかく、思うように弾け、完璧に絡んでやるから。 「ゴメーン、全然歌いきれなかったぁ、フェルマータも伸ばしすぎちゃったねー、最悪、あそこの旋律、酔っ払いの話し声みたいに品がなかったなぁ」  ほら、全部こいつは受け取っているんだ。奴がやらかした時のゴメーン、といった小さな悲鳴も、俺の頭には全部聞こえている。  光樹さんや姉貴は、こういう第六感のやりとりを見て、吐くほど胃痛を起こしたのだ。そう思うと、ちょっと可笑しかった。 「やっぱ変態だなぁ、俺ら」 「だねぇ……有難う京太郎。僕の好きなように自由に弾かせてくれて、何だかスッキリした」 「おまえ、オーバーワークで失敗したんだろ。いつもなら完璧なケレン味のパッセージが回ってない」 「……うん。リハばっかりで、自分の練習ができなくて……アップすらさせてもらえないから、リハでいきなりフルスロットルだろ、もう体も頭も付いていけなくてさ……とうとう真ん中のドがどこかわかんなくなっちゃった」 「まさか、本番でか」  うん、と和貴は頷いた。完全に、ピアニストの全感覚が悲鳴を上げてメルトダウンを起こした時の症状だ。これは普通、中々戻らない。苦しい。休むだけの心の余裕がない時こそ、これがくる。本当に、死にたくなる程、苦しい。 「光樹兄ちゃんを手伝いたくても、キャベツの千切りができないんだ。包丁を細かく上げ下げするだけで痛くて」  よくも、親友の伝家の宝刀を壊してくれたな……。 「クソだ、その事務所」 「皆にそう言われた。夏輝兄ちゃんは激怒こいて速攻で事務所に怒鳴り込んで行ったよ」  だろうな。あの憤怒の表情が浮かぶだけに、ちょっと笑えなかった。 「だから、もうクビになった」 「そりゃ目出度ぇや」 「目出度ぇ? 」 「だってエージェント付きじゃ、気楽にウチで頼むこともできないじゃん」 「……いいの? また弾きに行って」 「いつでも来いよ。俺、今日は帰るわ。突発で生島に頼んだけど、やっぱ俺が弾かなきゃダメだから」  和貴は引き留めなかった。俺が客を大切に思っている事を分かっているからだ。だから、そのままでいいと、俺はさっさと荷物をまとめて部屋を出た。  機密性の高い防音扉をグフォッと体で押し出すようにして開けると、目の前であの超イケメンエリート三兄弟が慌ててバタバタと動き始めた。 「お邪魔しました。ってか、ここにいても聞こえないんじゃ……大丈夫ですよ和貴は。今度また、俺と和貴で連弾やるので、良かったら店に来てください」  ぺこりと頭をさげると、慌てて整列した3兄貴もぺこりと頭を下げた。 「京太郎、食べて行きなよ」 「有難うございます。でも、今日は元々俺が弾く日なので、お客さん、裏切っちゃ悪いから……」 「そっか……プロだもんな」 「ええ、掃き溜めのプロなんで」 「何言ってんの……あ、ちょっと待って」  すると、リビングに駆け戻った光樹さんが、暫くして白いケーキ箱を持って戻ってきた。 「チョコのミルクレープ、新しいのを4つ入れといたから、政さんと生島君にも」 「わぁ、これメッチャ美味かったっす! 有難うございます、遠慮なくゴチになります! お邪魔しました」  靴を履くまで久紀さんが箱を預かってくれた。支度ができたので手を差し出すと、箱を渡してくれたのと同時に、頭をくしゃくしゃと撫でられた。 「そういうこと、二丁目でやったら生きて帰れませんて。マジで男前の自覚がなさすぎですよ」 「生意気言いやがって……有難う、気をつけてな」  気のせいか、3人の顔からは不安も緊張も消えていて、安堵したかのような笑顔が俺を見送ってくれた。  すっかり逢魔ガ刻に差し掛かった夕闇の坂道、俺もちょっと清々しい心持ちで歩き出した。 「京太郎」  すると、後ろから夏輝さんがサンダルを突っ掛けて走ってきた。 「これ、和貴が摘んだんだが、良かったら」  流石に息一つ乱す事なく、手にしていたバラの花束をくれた。指を怪我しないように何重にも英字新聞に包まれていて、オシャレな事この上ない。 「ブタベスト行き、色々と有難うございました。本当に有意義な経験をさせて頂けて、宝物のような旅になりました」 「何を言うか、あれしきの事では足りんくらいだ。今日は本当に有難う。君には感謝し尽くせないほどに、感謝している」 「いえ俺も……俺もいつも和貴から力を貰っています。バラ、店に飾らせて頂きます」 「また、伺うよ」 「お待ちしています」  力強く頷く夏輝さんに再び頭を下げて、俺は代々木上原の駅を目指した。    
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