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7.見えぬ狼煙
山岸さんの追悼記念イベントの地ならしを始めつつ、俺は新たにラフマニノフのピアノコンツェルト第2番のオケ伴を攫い始めていた。
7月、夏休みに入る直前に武蔵澤音大のAオケが学校の大ホールで定期演奏会を催すのだが、コンクール入賞記念と大々的に銘打って、和貴が弾くことになったのである。
五月中旬にはオケ伴の打診があり、五月晦日の今日は1楽章を通した。まだまだ俺の作りが完璧ではない為、演奏プランを組み立てたり解釈を擦り合わせたり、譜面の上での稽古が主となった。
とはいえ、和貴の演奏は本当に冴えなかった。
「おまえ、さらってる? 」
手の状態はもう完全に復活している筈だ。行進曲風に、と書かれているあの、スケート選手がオリンピックのフリーでも使ったあの部分など、フォルテで軽やかに全部の音を掴んでいやがる。憎らしい程に技術があるのに、まるで中身がない。
「これ、選んだのはオケ指揮の遠山先生? 」
「一応リクエスト聞かれた。モーツァルトは絶対やだし、ショパンもありきたりだし。それ以外なら、って言っといたらこれになった」
話し方も、丁寧なのは変わりがないが、何か余所余所しいというか、空気の噛み合わなさを感じてならない。
「和貴、ラフマニノフのこの頃の解説、読んだか」
「病んでた頃を抜けて、書き上げたって話なら」
京太郎なら絶対そうツッコんでくるだろうと言わんばかりの、木で鼻をくくったような言い方が、少し癪に触った。
「1楽章の時はまだ、鬱と戦っていたんだ。治療しながらやっと光明を見出して紡いでいったのが2楽章と3楽章だろ。不安定ながらも光が見えているのといないのとじゃ、全然違う」
「光、か。京太郎はいつも哲学的な表現をするから、難しいや」
こんな乾いた笑いをするような奴じゃなかったと思うが……。
そして、この妙な「出来合い」感というか、掠れ感というか、言葉にできない違和感は、一ヶ月後、とんでもない隕石として俺達の頭の上に降ってきた。
前期の実技試験、奴は首位から転落した。
それも、俺より数十人分、順位を下げた。
もう、オケ合わせも始まっているが、教授陣は頭を抱えているという。
イベントの準備は順調で、個人、グループと、演奏に参加をしてくれる人もかなり集めることができた。二丁目と五丁目、両方の店単位で宣伝を兼ねたステージタイムを振り分け、まぁまぁの重量になりつつあった。
今回は山岸さん追悼なので、初日のジャンルはシャンソンかジャズ。必ず歌を入れることとし、ステージとなる『ジルベール』の周囲には、奏者を送り出す店がそれぞれ趣向を凝らした屋台を用意し、客が飲み食いしながら楽しめるようにした。金曜の夜9時から11時までの2時間だけを歩行者天国とし、真骨頂である深夜帯への起爆剤とする。
1週目の金曜はシャンソンとジャズ、2週目の金曜と3週目の金曜はなんでもOKとし、お下品ネタもまぁ、逸脱しすぎない範囲で、とのことにした。まず無理だとは思うが……。
五丁目のキャバクラの中には、ボーイさん達の無伴奏コーラスを出す店もあったりして、改めて、人前で何かを表現したい人のなんと多いことかを知るのだった。
そのキャバクラのボーイさん達は、20代から30代の5人組で、今日も開店前の早い時間にうちの店で練習をしていた。多田武彦の『雨』を歌う。一番金をよく落としてくれる客層のおじさま達は学生時代にコーラスをやった人も多いようで、店でアンケートを取ったらこの曲が一位になったのだという。
下手だし、コーラス自体お初だし、譜面も勿論読めない。だけど、何度かやるうちにコツを掴み、何とか様になってきている。
俺は、何気なく和貴を誘った。
この、邪気のない音楽作りの雰囲気を、見て欲しかったからだ。
そして演奏にも誘った。いや、俺は弾かない。シャンソンを仕込んでやるから伴奏をやれと。そうしたら、二丁目の『金太郎』のママから、アニソンをぶちまけるから弾けとの依頼が入り、それも任せることにした。
気の乗らないコンツェルトを弾く暇があるなら、遊びに来い。教授陣に刺されるようなことを平気で言って、俺は毎日のように和貴を大学で見つけると拉致するように『スナック沙絵』に連れてきた。
「牙角の刃なら弾けますよ、生徒にいつも弾かされてるから」
オペラのディーヴァよろしく、華々しいドレス姿で練習に訪れた金太郎ママの無茶振りに、和貴は笑顔で答えた。
大ヒットアニメの、かなりテンポの激しいナンバーだが、さすがにきっちりコードも押さえ、綺麗に、そう、整ったアニソンを弾いて見せた。
当然ながら、金太郎ママは巨体を揺らし、髭の生えた口を捻くれるだけ捻って、チッ、と言った。
「京太郎、あんたがいい」
「だって俺……」
まぁ、いっか。と、聞きかじったアニソンを弾き始めると、カツラを吹き飛ばす勢いでヘッドバンギングし始め、往年のロッカーよろしくシャウトした。
「これよ、こうじゃなくっちゃ! 」
そこへまた、生島がバイオリンを担いで現れるなり、チャチャっとチューニングして絡むものだから、金太郎ママは昇天しそうになっていた。
「やだぁ、絵島生島チャーン! 」
最近富にこの街での存在感を増してきた生島の奴は、ご丁寧にジャケットの下にヒラッヒラのシルク調の白いブラウスを着込んでいた。しかも昔のヨーロッパ貴族の部屋着よろしく、胸元が大きくはだけている。楽器をいじるたびにチラチラと見え隠れする無駄な肉も無駄な毛もない胸筋に、金太郎ママの鼻息が荒くなる。長身で手足が長いだけに、恐ろしく絵になるのが憎らしい。
「アンドレ〜!! 」
いや、そこはむしろジルベールぅ! だろ。
「どうだい? イベントで使えるか見てもらおうと思って」
ジルベールの跡地でジルベールがヴァイオリン弾いたら、そらもう事件だ。
「命知らずだな、おまえ」
「気に入ってもらえたなら嬉しいよ。やぁ、霧生君、いたのかい」
やっとお目に止まりました、とばかりにわざとらしく和貴に声をかけ、生島はまた調弦を始めた。
「適当に重ねちゃっていいだろ、他の演目も」
「ああ、即興性があった方がウケる」
「名プロデューサーだからね、連城君は。ギャラ、高いよ」
「ギャラと交通費に、ウチでの飲み放題もつけてやる」
生島はヨロシクとばかりにキザなウインクをした。金太郎ママが横で鼻の付け根を揉みながら、顔を上に向けていた。
ピアノを囲むカウンターに、例のごとく浅く腰を下ろして顎で楽器を支え、ちょっと斜に構えて調弦する姿は、姉貴が狂ったようにハマっていたあの『ベルサイユのばら』の、正に生アンドレだ。
「ならもう1つ、そのチューニングスタイルも、現場で宜しく」
「承った」
よし、生贄は確保した。合掌。
「和貴、金太郎ママの伴奏してみろ」
そう言うと、和貴も金太郎ママも、お互いを見合わせて顔をしかめた。
「いいから」
渋々、と言った様子で、和貴は事前に渡していた譜面を広げた。
「和貴、そんなのお守りでいいぞ。好きにやれ」
取り敢えず、前奏はお堅く譜面通りに引き出した。やっぱり腰が引けてる。
「生島」
目で合図を送ると、奴は黙って楽器を構えた。こういうところ、本当に順応性が早くて現場向きだ。
ママの十八番、枯葉は、山岸さんとも組んで歌ったことのあるママにとっての宝物のような曲だ。
「ママ、アレンジは違うけど、絶対ついていくから、歌い方変えないで」
間奏でそう付け加えると、ママの顔が変わった。
降臨、エディット・ピアフ、もどき。
ママは全編フランス語でいける。だから、日本語で歌われるよりブレスの気配を探りやすい。あとは、揺らせ。俺は夢中で手を動かしながら和貴の伴奏に曲想のアップダウンを指示した。
間奏で再び、和貴が真面目に譜面通りに弾く。不味くはないが、面白くもない。とそこに生島がお色気たっぷりのメランコリックな旋律を重ねた。これでもかとウネリまくる弦の音の波に、和貴の硬質な音は辛い。
「和貴、生島についていけ、ってか、押し倒せ」
「きゃー! 京太郎ったらぁ」
俺も大概この街の人間だなぁと思いながら、止めずに二人の協奏を眺めていた。よし、と俺は和貴の横に並び、高音部に右手を差し入れて掻き回した。
「感じるだけでいい、タッチとか音色とか忘れろ。ただ弾け」
小声で囁きながら、わざと煽るように右手でオブリガードを被せ、俺はいつしか和貴の左肩を抱くように右耳に口を寄せ、夢中で枯葉を歌っていた。
「C`est une chanson
quinous ressemble
Toi tu'maimaiset je t'aimais……」
あの歌
二人に似合いだった
君が僕を愛し
僕は君を愛していた
4人の音楽が『スナック沙絵』に風の渦を作り出した。本当に枯葉が舞い落ちる、あの晩秋の風のように。
ママが最後を引き取って歌い終えた時、俺は和貴を背中から抱きしめていた。和貴は涙を鍵盤に落とし、肩を震わせて泣いていた。
「京太郎、僕……ピアノが、辛かった……」
俺も生島も、和貴ほどの大ステージに居なくても、同じような苦しみを経験している、いや、これからも度々そう泣いて身を捩ることになるだろう。
「ここまでが1楽章、もう、君には2楽章が見えるんじゃないか」
生島がそんな洒落た事を言った。
「素敵だったわ、本当に。アタシお迎えが来るかと思ったわよ」
「ママ」
和貴を抱きしめたまま軽く睨む俺に、金太郎ママはうっとりと頷いた。
「音楽っていいわねぇ……人間は、何かを表現せずにはいられない生き物だけど、こうして生まれも考え方も違う人間と、抱き合うようにして絡んで、形に残らない瞬間に命をかけるのって音楽くらいよね」
ママもまた、歌に命を賭けようと上京して、挫折を味わった一人だ。ママのように挫折の中から芽吹いた徒花が、この街には沢山咲いている、夜に。
復活の狼煙は、まだ立ち上ってこない。
燻りもしないその華奢な体に、何を注入してやれば良いのか。
「皆さんお疲れ様です、パスタでもいかがですか」
『スナック沙絵』に立ち上ったのは、五丁目の遅咲きミシュランシェフ政さんの手による、病みつきナポリタンの湯気であった……。
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