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8.覚醒前夜
久しぶりに学校で和貴とオーケストラ伴奏合わせをした。今日は3楽章までみっちりだが、流石に奴はもう全部暗譜して弾き込んでいる。あともう少し、足りない何かを、本番までに注入できれば良いのだが……。
「連城君」
練習後、和貴は教職課程の授業に向かった為、俺だけ食堂の自販機でコーヒーを買ってチビチビやっていた。イベントの準備も大詰めで、今週金曜には第一回目が始まる。見ておく資料は山となっていた。
と、目の前に超絶美形巨乳女史こと千堂先生が座った。慌てて立ち上がって挨拶をすると、コーヒーが溢れそうになり、先生が咄嗟にコップを掴んでくれた。危うく道路使用許可書をコーヒーまみれにするところだった……。
「君は本当に色んな顔を持っているね」
「え、いや……すいません、ヘンデルが中々上手くならなくて」
「期待してないわよ」
「へ? 」
先生は俺のメンタルを一刀両断にしてから、椅子に載せておいたラフマニノフのコンツェルトの譜面を手に取った。
「霧生君、どう? 」
弾けてるかどうかを問われているのではないことは、分かっている。
「大丈夫です。来週のオケ合わせには、何とかなる筈です」
「そう……ま、敏腕プロデューサーが付いているんだから、間違い無いか」
「敏腕って……」
「渡辺千紗も、君の店で歌うようになって表現が細やかになったって。松本先生に手を取って感謝されちゃった。渋谷のオーチャードでの年末の第九、渡辺さんがソプラノ・ソロですって」
年末になると、周辺の音大から成績優秀な奴が選抜され、渋谷のオーチャードホールで公演が行われる。今年は第九で、合唱は各音大の有志、オケは選抜、ソリストだけがオーディションで選ばれていた。
「有望株の国友大の佐藤珠代を抑えての全会一致で決定ですって。声楽の教授達も鼻高々よ」
「初めて聞きました。凄いな、あいつ」
「だから、霧生和貴も、あなたの腕で命を吹き返してやって。あの子は良いものを持っている、間違い無い。あとはきっかけよ」
「俺もそう思います……話は違いますが、先生はどこかマネージメントをつけてらっしゃいますか」
「大学の常勤になってからは、コンサートの時だけお願いしてる」
「良い事務所があったら教えて欲しいんです。あいつの個性をちゃんと伸ばしてくれるような、絶対に酷使しない事務所を」
「ああ……それにはもう一度、文句無い程のものをみせないとね。今のあの子には、百億積んでも誰もマネージメントしようなんて思わないでしょう」
「結果が先、ですか」
「そう。結果よ」
和貴のレベルのステージでプロとして食っていこうと思ったら、もっとシビアで厳しいのだ。俺たちのような根性だけ一人前の自称プロとは訳が違う。
でも、こんな俺たちだって、ミスをすれば次はない。次がなければ食っていけない。だから、どんな荒っぽい現場でも要求のきつい現場でも、求められたものを求められた以上に返して、次を取っていかなくてはならない。ステージに立つ前に緊張するのは、子供時代で終わっている。どう見せようか、どう弾いたら効果的か、時間に余裕はあるか、MCは、プログラムの構成は、アンコールは……山ほどのプランを頭に描き、そしてステージに立つ。
『俺ならやれる』
そう呪文をかけて。
食堂から校門へと歩いていくと、途中にオケの練習場がある。すり鉢状になっているスタジオで、廊下から細い階段を降りると入り口になっているが、校舎の外から坂道を下って入れる搬入口があり、より音が漏れやすくて覗きやすい搬入口の方に、ふらふらと立ち入った。
「あれ、連城君」
ちょうどそこに、同学年の西本愛菜がグランドハープを台車に乗せて転がしてきたところだった。弾いているところは優雅だが、ハープはこうした搬入も含め、力仕事が多い。専門のスタッフもいるが、学生がそんな人を頼めるはずもなく、ひたすらガテン系のデニム姿で台車に楽器を乗せて、校舎内を走り回っている。
「下り番? 」
「次の楽章から。渋滞でさぁ、入りが遅れちやって。遠山先生だと時間うるさいから嫌だなぁ」
俺たちは揃ってスタジオのドアの前に並び、覗き窓を開けた。ちょうど目の前にファーストヴァイオリンの群れが座っており、コンサートマスターを務める生島が、こちらに気付いてキザなウインクをして見せた。
「イクシマンの奴、またピッチ上ずらせてるよぉ」
黙ってコンマス勤めている姿は、如何にも貴族的雰囲気丸出しなのだが、中身は完全に「俺は群れるのが嫌いだ」状態になっている。
ああ、こいつはつくづくオケに向いてねぇなぁと哀れにすら思っていると、並んでいた西本が吹き出した。
「イクシマンさぁ、他の皆がちゃんとチューニングできないのに腹立ってんだよね。最近ほんと下級生とかクソ・ビッチなピッチで平気なんだもん」
あ、笑った方がいいのか? そこ。
「西本とかハープ連は、獣的に耳がいいもんな」
ハープ連とは、ハープ専攻者組織のことだ。どの大学とも繋がっていて、とても狭い世界なので、引っくるめてそう呼ばれている。トランペットなどの金管はラッパ会、声楽の女子はウタ子とか。
「私もアレ、耐えらんないもん。遠山先生、ちょっと耳鈍いんだよね」
あと5分ほどでこの楽章は終わるぁと思いながら、個性を殺して内心飽き飽きしながら弾いている生島を見つめた。奴は、自分の活かし方、活かす場所をきっともう、見つけている。ここではない場所を。
店に戻ると、もう政さんが仕込みを始めていた。
「お帰りなさい」
いつものように、トイレの洗面台で手洗いうがいを済ませると、政さんが仕込みの手を休めておやつを用意してくれた。
「ごめんね、ここんとこ政さんに任せっぱなしで」
「大丈夫ですよ。あなたはちゃんとお客様を見ている。気がそぞろになっているとは思えません」
「うん……」
そしていつものように、予約表を出してくれた。
常連客は突発で来ることの方が多いが、ここのところ、演奏者のローテーションもあり、事前に誰が弾くのか知りたいという要望が出始め、予約も受け付けることにしていた。
「今日は最初は生島と友梨か。席、埋まってるんだ」
「彼はどんどん垢抜けていきますね。貴公子然として洗練されて、一切の歪みも許さない統制の取れたヴァイオリンだと思っていましたが、どうしてどうして、最近は伸び伸びとステージをアレンジしてらっしゃいます。彼のご贔屓もできてきたようですし」
「覚醒か」
「覚醒前夜、でしょうかね。きっと世界にも通用するヴァイオリニストになれるかもしれません。オケに収まるタイプではない」
オケはオケで、大局を解釈する正確な知識と、周りとシンクロする卓抜した第六感が必要である。織物を織り上げるような地道な練習の上に、あれだけの絶対的荘厳な音色は生まれるのだ。俺は、ピアノ専攻でなければ一も二もなくオケに入っていただろう程に、オケに入ってみたいと思う。むしろ、オケに入れる連中が羨ましい。こんなことを言うと、やっぱり京太郎はソロ向きじゃないね、などと言われるのだが……。
「京太郎君に、これだけの敏腕プロデューサー的才能があろうとは、沙絵ママもご存知なかったことでしょう」
「政さんこそ、どんどん耳が評論家みたいに鋭敏になっていくから、俺なんか聞かれるのが怖いよ。今日も俺が弾いた途端に客がいなくなったりして」
自虐的に笑ってケーキにフォークを差し入れると、政さんがその手に触れてきた。水仕事をしていたとは思えない、暖かくしっとりとした手。
「いいえ、あなたのピアノは、やはりいつ聞いても優しい。人の背中を押すピアノです。それは、あなたのピアノだけが持つ力ですよ」
真っ直ぐな目でそう言われ、俺はつい恥ずかしくて、手を振り切るようにチーズケーキを頬張ってしまった。あれ、めっちゃ美味い。
「イベントの打ち合わせで、光樹さんが二丁目に顔を出すそうで、行きがけに君にと届けてくれました」
「これも、プロの仕事だよなぁ……タダで貰ってばっかりじゃ悪いよな」
「でしたら、和貴君を何とかしてあげてください。演奏者を覚醒させる場、ここが、そして君がそんな役割を果たすのも、或いは運命かもしれません」
ケーキを運ぶ手を止め、俺は政さんを見つめた。
優しいが、決然とした笑顔で、政さんは頷いた。
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