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9.タンゴの夜
店が定休日の日、イベントも近いことから、俺は五丁目と二丁目を走り回っていた。初回のイベントに参加する店を回って打ち合わせをすることと、他の回に参加予定の店や、主会場となるジルベールの近所の店にも仁義を切るためだった。
元々この街には、あまり触れられたくない深部があり、何某かの影を負ってひっそりと、誰の目にも触れずに訪れたいという人が一定数いる。いや、大多数といっても良いかもしれない。大っぴらにして欲しくない、そんな声が上がるのもまた、無理からぬことなのだ。
「あんまり馬鹿騒ぎされてもねぇ」
和食を出すボーイズ・バーのマスターが、タバコを灰皿に捻じ込みながら眉を顰めた。
レイバンかけてスーパーZから上半身出してレミントンぶっ放す西部署の刑事のような角刈りで、よし子ママは次のタバコをくわえた。タバコが苦手な俺が咳をすると、ああ、とタバコをしまってくれた。
「あんたこの街で生まれた癖に、タバコ駄目? 」
「俺も姉貴も大の苦手です」
大嫌いです、と言いたいのを寸手で我慢した。
「ママ、別にお店の中で盛り上がっている事をそのままやってもらうわけじゃないんです。お店の紹介だったりスタッフの紹介を兼ねて、皆が本当にやりたかった事を出してもらいたいだけなんです」
「本当にやりたかった事。ああ、金太郎ママのシャンソンとか」
「そうです」
チラ、とママが店の奥に目を送った。
カウンターだけの小さな店だが、ママの和風なこだわりは強く、とても品の良い内装になっている。その奥、トイレのドアの近くには、箏が大切に立てかけられていた。
「アタシさ、お箏の師範だったのよ。流派は姉貴が継いだけど、こうなってからは一度も触ってないの。アタシ、男にだってこんな未練引きずったりしないのよ、でもね……」
「やりましょうよ」
「無理よ、何年触ってないと思ってんの」
「そういうの、出しましょうよ。確かマリネママは日本舞踊の名取でしょ、コラボするのも楽しいじゃないですか。まだ枠は空いてます」
ママはやっぱりタバコに火をつけた。長い長い沈黙の後、ニッカリと笑って金歯を見せてくれた。
「アンタに言われちゃ何も言えないわよ。アタシなんかここじゃまだぺーぺーだけど、あんたはあの園子ママのお気に入りで、この街の天使の弟だからね」
「天使? 」
「アタシ、初めての男に絆されて、箏を抱えて飛び出してきたの。でもここに着いたらソイツのベッドに他の男がいて……泣いて飛び出して通りに座っていたら、楽器が濡れるからって自分のレインコートを被せてくれた人がいてね」
「それって」
「あんたの姉さん、なんでしょ。その後すぐ、園子ママの店に連れて行ってもらって……園子ママに聞いたわ、この界隈の守護天使だって」
結局、姉貴の名前に助けられた。
それでもいい。姉貴が大切にしていたこの街に、俺たちを育ててくれたこの街に、かつての活気を取り戻したい。昭和の先達が亡くなっていく中、空いたまま塞がらない穴を、新しい色で埋めていけたら、と。
『ジルベール』では、店内の清掃とPA機材のセッティングをした。珊瑚のママが、閉店した店の機材を提供してくれた。モニターも、潰れたカラオケスナックにあったものを、テナントのオーナーさんから快く借り受けることができた。ちょっと物珍しいけど入る勇気はない、という人にも、中でやっていることがすぐわかるように、3秒でも足を止めてもらえるように、撮影スタッフも手配済みだ。ガールズバーのマスターである嶺二さんは元々映画学科を専攻していたとかで、本格機材を揃えて乗り込んでくれることになっている。
88鍵の電子ピアノはもう入れてあるので、ここでも練習ができるようにはなっていた。ふと、バーカウンターの足元に転がるアコーディオンに目を留めて、俺はちょっと試しに音を出してみた。
フラメンコの伴奏に使っていたのかわからないが、俺が弾けるとしたらむしろタンゴだ。やっぱりピアソラだろう。
だが、思うように音が出ない。やり方が不味いのもそうだが、楽器そのものの劣化が激しすぎる。折角のピアソラ熱を放射し損ね、俺は溜まらずに電子ピアノで『ブエノスアイレスの四季』を弾きだした。
一時期、本当にド嵌りしたことがあった。どうしても弾けるようになりたくて、CDを聞きまくって音を取った。当時の俺には、これを分かち合ってくれる友はおらず、ひたすら足りないパートをピアノに落とし込むしかなかった。
だが、今はあの泣きたくなるようなメロウな旋律を、哀愁たっぷりに重ねてくれる友がいる。
夢中になって『春』を弾き終え、夏に入った時、あのキザなヴァイオリンの音色が、俺が弾こうとしたメロディを掻っ攫って行った。すぐさま伴奏に専念すると、バーカウンターを打楽器に見立てたリズムセクションが加わった。
すると、俺の右肩にぴったりとくっつくように高音パートが加わり、俺を低音域へと追いやった。連弾になるとバンドセクションが一気に厚みを増す。
夏、秋、そして最も俺が好きな冬。
目の前で、しなるような四肢をした美しい女が、葉を失ったハラカンダの木に物哀しげに手を伸ばしている。その細い腰を支えるように引き寄せた背の高い男と顔を寄せ合い、足を絡ませるようにして緩やかに動く。弓なりに逸らした女の胸に男の唇が這うが、女は拒むように男から離れてくるくると舞い落ちる枯葉のようにターンを繰り返す。追う男、逃げる女、追う男がとうとう女を引き寄せる。腕を掴まれ、拒むように顔を背けながら、引力に抗えずに男の胸の中に収まる。絡み合いながらも完璧にシンクロしたステップを踏む男女……ブエノスアイレスの愛。
「リベルタンゴ! 」
そう掛け声が聞こえ、一気にステージは高揚する。ハイテンポでタンゴを踊る男女の汗が飛び、俺たちのボルテージも一気に高まる。
フルートも加わり、手拍子も加わり、いつしか大きな輪となって、『ジルベール』がブエノスアイレスの熱気に包まれた……。
ハアハアと息を吐きながら隣を見ると、和貴が満面の笑みに涙を浮かべていた。同じように汗まみれの生島、パーカスを担当していた政さん、フルートの香織と手拍子で参加の友梨、何より、ブエノスアイレスの夜を彩った二人の美しきタンゴダンサー、光樹さんと久紀さん。そして惜しみない拍手をし続ける、通りを埋め尽くすギャラリー。
姉貴、姉貴、今の聞いたか。
姉貴、俺に音楽を、ピアノを授けてくれてありがとう。
こいつのおかげで、俺は仲間に出会えたよ。
俺、一人じゃないから。
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