千と倫

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 彼は目を覚ました。眠りのなかでは昏い夢をさまよっていたので、自分が揺れる馬車にいると思い出すまでしばし時間がかかった。 「大丈夫か?」  穏やかな声の方へ首を曲げると親友の黒い目が彼をのぞきこんだ。背中があたたかいのは親友にもたれているせいだ。彼はあわてて体を離そうとしたが、親友の腕はしっかり彼を抱えこんでいる。 「もうすぐ着くから、辛抱してくれ」 「あ、ああ……」 「安心しろ、追手は来ない」  そうだ、彼は親友に助けられたのだ。ずっとベータの長男として生きてきたのに、家督をついだとたんにオメガ性の形質が発現して一年、彼は生家に閉じこめられて、いずれ自分を買うことになるアルファの客を受け入れていた。今日はいよいよ、公爵の元へ連れて行かれるはずだった。  実の弟が彼を公爵に売り渡した。アルファの弟は彼がオメガだとわかってから、彼の代わりに家督をついだ。彼の生家の男爵家はそんな家系だった。オメガは家の財産として、家のために他家へ売られていく。  昼に訪れた客が帰って、彼は最後の自由な時間を味わおうと、生家の庭の竹林を歩いていたのだ。するとどこからか親友があらわれたのだった。親友はいまだ最後の客の匂いと体液にまみれた彼に新しい服をあたえると、裏門から連れ出して馬車に乗せた。  馬車の中は暗く、手の幅ほど開いた窓の外は夕闇に包まれている。誰かに見られて指をさされるのではないかと彼は恐れ、顔をそむけた。弟や家の者は必死で探しているはずだ。公爵は怒り狂うだろう。彼を手に入れるために大金を払ったにちがいないのだから。  そこまで考えをめぐらせて、彼は「追手は来ない」という親友の言葉を不思議に思った。捕まれば親友もただではすまないはずだ。昔はいざ知らず、開国してからというものオメガを売買することは法によって禁止された。しかし婚姻の形をとれば何の問題もない。それに公爵の権力は警察にも及んでいるのだ。  いったいどこへ向かっているのだろう? そう思ったとき蹄の音に変化が起き、風変わりな匂いが鼻をかすめた。今、馬車が進んでいるのは石畳の道だ。 「君、まさかここは」  彼はもう一度首をめぐらした。 「居留地だ。治外法権だから官憲も追えない」  親友は低い声でささやいた。「もう着く」  そのとたん馬車が止まった。軽やかな足音のあとに馬車の扉がひらく。背のひくい影が角灯を捧げ、柔らかな声がたずねた。 「うまくいった?」 「ああ、計画通りだ」  彼は親友にうながされて馬車を下り、角灯の光に目を細めた。親友は彼の横にたち、肘にそっと触れた。そのとたん尻の奥がしくりと疼き、彼は反射的に親友の手を払った。 「……僕は大丈夫だ」 「こっちへどうぞ。足元に気をつけて」  柔らかな声の持ち主がふりむき、彼はハッとした。オメガだ。それに栗色の巻き毛にかこまれた顔はこの国の人間らしくない。相手は彼の驚きをなんとも思っていない様子で暗い戸口に近寄ると、角灯を消して扉をおしあけた。壁のランプに照らされて、寄木細工の床が艶やかに光った。 「ここは領事の屋敷だ」と親友がいった。 「君の職場?」 「領事館は表にある。俺は庭の離れに住んでる。彼は医者だ。居留地のみんなが世話になってる」 「オメガなのに?」  思わず口から出た言葉を彼は恥じ、あわてて取り消そうとしたが、医者は彼をふりむいて微笑んだ。 「勉強すれば誰でも医者になれる。領事殿は今夜は留守だ。いまから簡単にあなたを診る。それからお風呂に入って、ご飯を食べて、今日はゆっくり休むこと」  医者は親友に視線を移した。 「あなたは外で待ってて。終わったら知らせるから」  親友はうなずいたが、思い出したようにいった。 「鍵は持っているか?」 「ああ」  彼はポケットを手で押さえた。どんな手段をつかったのか、親友は彼を連れ出した時、うなじを覆う首枷の鍵も持ち出したのだ。 「こんなものをつけられているの? ひどい」 「いや、これは……僕を守るためだから」彼はなぜか弁解していた。「これのおかげで噛まれずにいられた」 「外せる?」 「……やり方がわからない」 「俺がやる」  親友の手が首枷に触れたとき、彼はアルファの匂いを強く意識していた。腹の奥がくっと熱くなるのをこらえて、差し込まれた鍵が回る音をきく。 「これでいい」  親友が外した枷を医者に渡した。彼はじっと立っていた。一年のあいだ彼を縛っていたものがなくなったのに、心を占めているのは安堵ではなく、奇妙な不安だった。 「はい、行って」  オメガの医者は親友を急き立てて外へ出すと、彼をきちんと整えられた広い部屋に案内した。外国風の猫足の浴槽が一方の端にあり、反対の端にベッドがある。 「申し訳ないけど、オメガ性とわかったときから今日までの事情をきかせて。診察もさせてもらう。嫌だと思うけど、居留地で独身のオメガは定期的に検査を受けることになってる。領事殿の方針だけど、その方がいいんだよ。病気をうつされていないかわかるし、自分の発情周期を把握することもできる。いちばん最近のヒートはいつ?」 「最近?」  彼はベッドに腰をおろした。 「終わったばかり……だと思う。申し訳ない、よくわからないんだ。一年前、オメガ性とわかってはじめての……最初のヒートはつらくて……大変だった。そのあとは家の者が渡す薬を飲んでいて……そのせいか最初ほど辛くなかったし、だんだんわからなくなった。家の者が……ヒートの気配があると客を呼んで……」彼はいいよどんだ。 「客がきて……それで……おさまる。月に一度か二度」 「そんなに?」  医者は淡い色の眸をみひらき、驚いたようにいった。 「男性オメガの発情周期は通常そんなに短くないよ。僕は年に四回くらいだ。オメガ性が現れるのが遅れたからって、そのペースは速すぎる。薬はどんなものだった?」 「赤い丸薬だ。毎朝飲んでいた」  それをきいたとたん、医者はきっと唇をひきむすんだ。 「わかった。じゃあ診察をさせてもらっていいかな。すぐに終わらせるから。そのあとでお風呂に入って、食事にしよう」  猫足の浴槽から出たときはさっぱりしていい気分だった。彼は空腹をおぼえながら、生家を出る時に親友が用意したシャツとズボンを身に着けた。研究所で働いていたときのような服装に、生家の奥座敷からほんとうに離れたのだと実感する。この一年、彼が閉じこめられていたも同然の座敷には、月に何度かアルファの男達がやってきて……。  そう思ったとたん腰の奥をしくりと切ない疼きがつらぬき、彼は行き場のない羞恥を感じた。親友は察しているにちがいない。彼があそこで何をしていたか。アルファの男たちをどんなふうに迎えていたか。組み敷かれ、両足をひらき、尻をつきだして……。  じっとしていられなくなって、彼は部屋の中をぐるりとまわり、そっと扉をひらいた。寄木細工の廊下を数歩進んだとき、声が聞こえた。 「娼館なみにひどい」オメガの医者の声だった。 「薬で誘発していたんだ。月に1回でもヒート過多なのに、2回なんて! ほんとうにとんでもない***」  医者の悪態をさえぎったのは親友だ。 「体は大丈夫なのか?」 「感染症や腫瘍はなかった。薬をやめればいずれ本物の周期に合ったヒートが来ると思う。それまで……」  彼はさっとあとずさり、部屋に戻った。  誘発? 生家で用意されていたあの薬は彼を助けるものではなかったのか。  いつからか、彼の体はいつもゆるやかなヒートの熱をおびていた。最初に経験したような激烈なものではなかったが、アルファの男が素肌に触れるだけで秘部は濡れ、熱く堅い欲望を求めて蠢くようになっていたのだ。  ベータとして生まれた彼は、オメガの生理がどんなものかについて完全に無知だった。オメガとはこういうものだと思いこんでいたのだ。だからこそ、仕事をやめることも家督を弟に引き継がせることも、しかたないと思っていた。こんな体でこれまで通り生きていけるはずがない。他のアルファに買われるのも、生家のためであると同時に、彼のためでもあると思うようになっていた。  でもあの医者はオメガ――生まれつきのオメガだ。オメガでも医者で、ヒートは年に四回……。  彼は寝台にすわって頭をかかえた。扉を叩く音がきこえた。 「はい」 「調子はどうだ?」  わざとらしいくらい明るい声とともに親友が入ってきた。両手に大きな盆を捧げもっている。 「食事だ。カツレツだぞ」  親友は中央のテーブルに盆をおき、すばやく食卓を用意した。 「今日の冒険で俺も腹が減ってる。ほら、座って」 「あ、ああ」  彼は大人しく食卓についてナイフとフォークをとったが、白い皿の料理も湯気のむこうにいる友人の顔も、まるで夢のようだった。オメガ性が発現する前は、ときどきこうやって親友とレストランで食事をしたものだ。座敷に閉じこめられていた一年のあいだ、彼はこんな風に親友と向かいあう夢を何度もみたのだった。  でもこれは本物だ。金色に澄んだスープも、カツレツも野菜のピューレも美味だった。彼は食べることに集中しようとしたが、さっき聞こえた言葉が頭をよぎるのは止められなかった。 「すまない、立ち聞きしてしまった」  さいごのひと口を飲みこんだあと、ついに彼はあきらめて、訊ねた。 「家の者に勧められた薬は僕のヒートを誘発していたのか?」 「最悪だ」  親友の短い答えがすべてを物語っていた。怒りをはらんだ口調が恐ろしく、彼はあわてていった。 「頼む、怒らないでくれ」 「おまえのかわりに怒ってるんだ。どうして恨まない? あいつらはおまえの人生を奪ったんだ」 「ちがう。そうじゃない」  彼はきっぱりと首をふった。 「僕は自分の生まれた家のことくらい知っている。僕だって自分がオメガだと知るまで気にしたこともなかった。ヒートがどんなものか……アルファの家に嫁がされることも」 「こんな裏があったのに結婚を祝ったなんて、俺は大馬鹿者だ。いや……」  親友は首をふり、笑顔をつくった。 「おまえはここにいるんだから、こんな話はしなくていい。今は休まなくては。落ちついたら学生寮にいた時みたいにはめを外したっていい。おまえがしかけた悪戯、俺はけっして忘れないからな。顔に墨を塗られた時は参った」  それは何年も前の優しい思い出話だった。彼は小さな笑みを浮かべる。 「口頭試問の前だというのに居眠りしているのが悪い。君は寝相が悪くて、居眠りの姿勢も豪快だったから塗りやすかった」 「まったく、真面目一本やりかと思えばとんでもないおふざけをするし、あの頃はよかった。俺はずいぶん助けられたよ」  そういえば、と彼は思い出す。親友の家はあのころ苦境にあったはずだ。 「君の家は大丈夫なのか? お父上の病は……」 「治ったよ。復職して今は母と官舎住まいだ。妹は嫁いだ」 「そうか。何よりだ」 「知っていたか? あのころ妹はおまえに懸想していたんだ。父のことがなければおまえをけしかけていたかもしれない」 「はは、まさか」彼はまた小さく笑った。「なぜそんな……」  親友は真顔だった。 「そうすればおまえと兄弟になる。縁が切れなくなる。いや――これも今はもう関係ない」  彼は自分に向けられた真摯な眸からそっと視線をずらした。親友は外見も内面も、彼にはないものを持つ男だった。彼のように諦めたり、妥協したりしない。だから好きだった。憧れというには強すぎるほど。  自分がオメガだとわかる前も、実は何度か、親友に触れたいと思ったことがある。そのたびに彼は馬鹿なことを考えた自分を嗤い、欲望を押し殺した。  今思えばあれも、自分が未発現のオメガだったから感じたことなのだろうか。 「おまえを連れてくることは領事殿に許可を得ている。この国でオメガが無体な扱いを受けていることを憂慮されている。明日紹介するから、そのあとは俺の離れで暮らしてくれ」 「でも……」  口ごもった彼に親友は苛立った声をあげた。 「公爵だろうがなんだろうが、助平爺におまえを好きになどさせない。だから連れ出した」 「……君は僕が何をしていたか知っているだろう。僕は」 「馬鹿なことをいうな! 悪いのはあいつらだ。おまえじゃない。こんなものをつけて、おまえを好きにして」  親友は立ち上がり、何かを床にたたきつけた。首枷だ。荒い声とともに親友の匂いが――アルファの匂いが彼を覆い、体の奥がとくんと疼く。 「頼む、やめてくれ……僕から離れてくれ」  彼はやっといった。親友はハッとした顔で彼をみて、一歩下がった。 「すまない。悪かった。ゆっくり休んでくれ」  親友は食器を盆に戻して部屋を出て行ったが、その残り香は眠る直前まで彼を悩ませた。  翌日の昼食のとき、彼は領事に会った。西洋人の基準でいっても堂々とした偉丈夫で、笑顔が魅力的なアルファである。彼の事情を問いただそうともせず、逆に気を遣わせまいという配慮か、海の向こうの生国について快活にあれこれ話してくれた。  途中でオメガの医者がやってきて同席した。医者は領事館にも私邸にも自由に出入りし、領事と何度も愛情のこもった視線をかわしている。てっきり妻にちがいないと思ったのに、アルファの二人が仕事に戻ったあと何気なくたずねると、あっさり「ちがうよ」と答えた。 「領事殿につがいはいない。ヒートが辛いときは頼らせてもらっているけどね」  彼は自分が耳にした言葉が信じられなかった。 「そんな……」 「僕だけじゃない。居留地でつがいのいないオメガはみんな領事殿のお情けにすがっているんだ。アルファに抱かれるのがいちばん手っ取り早い。信頼できる方ならなおさらだ。自分で処理するだけだと長引くし、ヒートがきちんと終わらないと仕事に戻れないだろう?」  仕事。彼は困惑して医者をみかえした。オメガ性が発現してから、彼は自分が持っていたものや、これまでなしとげたことすべてを諦めなければならないと思いこんでいた。もちろん医者はそんな彼の内心まで気づかなかった。 「誘発するんじゃなく散らす薬があるといいんだけどね。僕は科学を信じているから、いずれそんな薬もできると思ってる。そしたら僕らはもっと自由に動き回れるようになるよ」  医者は励ますような笑みをうかべた。 「あなたのヒートは自然に起きたものじゃないけど、自分の体を怖がらないで。それにあなたには特別な味方がいるだろう?」  彼はびくっとした。 「でも……友人にそんなことは……頼めない。僕をここに連れてきただけで十分危険を冒したのに」 「そう?」  医者は気軽な口調でいった。 「それならヒートの時は領事殿に頼ればいいよ。恥ずかしいことじゃない。僕の母は娼婦で、どこかのアルファに噛まれて、僕をみごもったとわかると捨てられた。この町にはそんなオメガが何人もいるし、アルファのつがいなんていらないっていうオメガもいる。でもあなたはちゃんとした教育を受けて、自分の仕事だってあったはずだ。つがいがいればよそのアルファを誘惑するなんていわれずにすむ」 「そんなことをいうのなら……」彼の声は少し大きくなった。「あなたこそ、領事殿とつがいになりたくないのか?」 「だめだよ、そんなことをしたら僕が面倒をみているオメガの子たちが困る。僕は彼らのために医者になったんだ。すごく大変だったけど、領事殿はずっと僕を助けてくれた。僕はあの方を尊敬してる」  医者の言葉に特段の感情はこもっていなかったが、彼はひどく恥ずかしくなった。 「すまない」 「あなたはまだ混乱しているんだ。あ、用意できた?」  部屋の外から誰かが声をかけ、医者はさっと立ち上がった。 「離れの改造がすんだよ。こっちだ」  親友が住んでいる家は庭園の向こう側だった。四部屋に小さな厨房と土間、浴室のある和風の家だ。中に入って彼は目を丸くした。一部屋の障子が突貫工事で板壁に変えられ、鍵のついた戸を立てられていたのだ。 「部屋の鍵。アルファと暮らすには必要だから」  彼は渡された冷たい金属を手のひらに握りこんだ。質素な和室は新しい畳の匂いがして、彼の生家の奥座敷とは似ていない。親友はまだ領事館で仕事中だが、私室の障子は開いていた。畳に絨毯が敷かれ、ベッドが置いてある。床に本や衣類がちらばり、ベッドも独身者らしい乱雑さだった。  彼は本を一冊拾いあげ、自分に与えられた部屋に入ると、正座して読みはじめた。  トントンと叩く音でわれにかえった。本は床からすべりおち、彼はいつのまにか正座を解いて眠っていたのだ。板戸をあけると親友の顔のむこうに食事の膳を抱えた女性がいる。 「具合はどうだ? 食事だ」 「あ、ああ……」  畳のうえに、ふたつの膳は十分に離れて置かれていた。彼は親友とむかいあって二回目の食事をとった。親友は屈託ない様子で領事館の出来事や、居留地に新しくひらいた店の話をしたあとで、つけたすようにいった。 「確認したが、ここはノーマークだ。仮に気づかれてもおまえの家は居留地の中に手は出せないし、俺は領事館の職員で、居留地の法で守られている。心配せずにゆっくりしてくれ。暇すぎて困ったら、俺の部屋の本を好きなだけ読めばいいから」 「……実はもう一冊借りた」 「やっぱりな。俺のじゃ物足りないかもしれない。欲しいものがあったら取り寄せよう」 「ありがとう」 「でも、最初に会った頃みたいな本の虫に戻るなよ。ほどほどに」  その晩、彼は親友と離れた席で向かいあったまま、いろいろな話をした。学生時代の思い出から今の政治の話題まで、楽しい時間だった。自分の部屋に戻ると戸に鍵をかけ、清潔な布団に横になった。  数日は無為ではあるが平和な日が続いた。親友は毎朝、離れから領事館へ出勤する。戻りは日が暮れてから、時にもっと遅くなることもあった。食事は領事の私邸から運ばれ、家事も使用人がやってくれるのは生家の暮らしと変わりなかった。  彼は昼間は親友の部屋に入り浸り、本を読んで過ごした。医者は一日おきに彼の様子を見に来た。一度は私邸で茶菓をふるまわれたこともある。  しかし平安の日々はまもなくおわった。  ヒートの前兆を感じたのはいつだったか。とにかくある朝、彼は目覚めて、それとさとったのだ。  こんなにはっきり体の熱を感じるのはいつ以来だろう。いちばん最初のヒートの記憶がよみがえり、彼は布団の上で顔をしかめた。胸の尖りが肌着に擦れるだけで、ぞわりとした感覚に産毛が逆立つ。股のあいだから腰の奥が密かな欲望にしくしくと疼く。 「まだ寝ているのか?」  板戸のむこうから親友の声がした。  彼は布団の上でうずくまったまま、背筋を走るさむけのような感覚をこらえた。じっとして、親友がいなくなるのを待った。こんな状態で会うことはできない。彼のヒートは親友の発情を誘発するだろう。板のむこうの気配が消えると、止めていた息を吐く。 「……はっ、はぁっ」  無意識に胸元に片手をいれ、おのれの乳首を弄んでいた。つまみあげ、こすって、ここを愛撫する他人の舌――アルファの唇を想像した。だが脳裏に浮かぶのは彼をこれまで抱いてきたアルファの男達ではなく、親友の顔だ。  彼はやっと板戸をあけた。廊下を這うように進んで、なんとか用を足し、身支度をした。替えた下着はもうぐっしょり濡れているし、冷水で顔をごしごし洗っても、体の芯に灯った熱は冷めない。  今のうちに医者に相談しよう。なんとかそれだけ、頭が働いた。玩具があれば自分で慰めるのもずっと簡単なはず。  彼は人目を気にしながら領事の私邸まで歩いた。使用人の誰かしら、医者のゆくえを知っている思ったのだ。裏口は開いていて、一歩中に入ったとたん、敏感になった彼の耳は壁のむこうからびびく、かすかな声をとらえた。  ――獣のようなうめき声。  ああ、そうか。彼にはすぐわかった。この一年、彼自身もああやって、何人ものアルファにあんな声をあげてきたのだから。  たとえ誘発された発情でも、見知らぬ男たちに晒した痴態に変わりはない。  親友にあんな声を聞かれたらと思うといたたまれなくなった。彼はよろよろと離れに逃げ帰ったが、そのあいだも体の疼きはますますひどくなった。顔に水をかけて気を紛らわそうとしても、彼の手はいつのまにか自分の体をまさぐっている。  よろめきながら進んだ足は、空虚な仮住まいにすぎない自分の部屋ではなく、親友の部屋の敷居を踏んでいた。しかし彼は意識していなかった。彼の理性はなかば働くのをやめていた。いまは苦しく呼吸するたびに彼をみたしてくれる、親友の匂いだけが救いだった。  彼は乱れたままの寝具に顔をおしつけ、胸をこすり、自分自身を弄った。股間は耐えがたく張りつめ、指が触れるだけで白濁が零れたが、彼が望んでいる終わりではない。うつぶせにもちあげた尻の奥は愛液でしとどに濡れていた。指を入れても欲しいところには届かない。欲望で頭がいっぱいになり、ほとんど気を失いそうだ。  実際に気を失っていたのかもしれなかった。口に冷たいものが触れ、彼は目をあけた。渇望してやまない匂いとぬくもりが彼を抱きしめている。 「――! 大丈夫か!」  真上にある親友の顔に彼はなんとか微笑もうとした。 「……君は僕の大事な友人だ。これからもずっと友人でいたいから……君もそう思うなら……僕をほっておいて……」  体がこんなにも親友を求めているのに、自分自身が発した言葉は彼の胸を押しつぶした。ちがう。本当はちがう。でもアルファの親友にオメガとしての自分を晒したら、もう友ではいられなくなる。  だが次の瞬間ささやかれた言葉に、彼のうなじの毛はいっせいに逆立った。 「すまない。俺は嘘をついていた」  彼の口に触れるか触れないかのところで、親友の唇が動いた。 「おまえが好きだ。単なる友達じゃない、ずっとおまえが欲しかった。ベータのおまえに男の趣味はないとわかっていたから、いえなかった。俺は卑怯だ。おまえがオメガだと知って、俺のものにできると思った。おまえを抱いた男たちと同じだ。俺は……」  彼はまばたきした。うたたねから目覚めた一瞬のように、親友の言葉は彼の頭にかかっていたもやを吹き飛ばした。 「待って」  彼の中には信じられない、という思いもあった。喉がこわばって、声はなめらかに出てこなかった。 「君は卑怯じゃない……」彼は唾を飲みこんだ。「僕も君が好きだ」  親友の眸がまるくなった。 「……そんな、本当、か……?」 「僕もずっと……オメガだとわかるまえに何度も、君に触れたいと……千哉――千、君が……」  彼は親友の名を呼んだ。昔、ふたりしかいないときは親友をこう呼んでいたのだ。親友は他の者には名前を略して呼ばれるのを嫌がった。だから彼は嬉しかった。自分だけに許された特権のように思えたからだ。  親友の唇が彼の頬に触れた。 「倫一、おまえも……」  彼はいやいやをするように顔を揺らした。 「ちがう。倫だ。君といるとき、僕はただの……倫だった。家督もなにも、関係なくて……」 「倫」  唇が重なった。今度こそ本当に彼は何も考えられなくなった。親友の匂いと舌の熱さで全身は溶けたようになり、アルファを刺激するヒートの香りがとめどなくあふれ出す。親友も口をきかなかった。耳を弄られ、歯を立てられる。股間や爪先がぴくぴくと反応し、彼は深い息をつく。自分を裸に剥く強い力に身をまかせ、素肌を空気にさらした。胸の尖りを指でいじられながら下半身を這う舌の動きに喘ぐ。熱い舌はとろとろに溶けた彼の秘部をさぐり、音を立てて愛液を吸った。彼はぎゅっと目をつぶった。たまらない刺激についに声が出てしまう。 「あっ、ああっ、千、千、来て、僕のなかに……」  衣擦れの音に薄目をあける。裸になっても親友はたくましく、美しかった。股間で頭をもたげている太い雄をみつめたとたん、欲望で唾液があふれてくる。かつて彼を蹂躙したアルファに感じた恐れはまったくなかった。彼は親友と正面からみつめあった。楔が内奥へ入ってくると、濡れた襞が妖しく蠢きながらしめつけ、もっと奥へと誘いこむ。  親友の顔が快感でゆがむのをみつめ、彼はとほうもない喜びを感じた。 「倫……」 「もっと……おく……突いて……お願い……あっ」  欲望を口に出しても、はしたないとか後ろめたいと感じるゆとりもない。また唇をかさねて、上の口も下の口もいっぺんに塞がれ、真っ白な快感が襲ってくる。親友のたくましい腰が彼をゆさぶって、唇が離れたとたん、彼の喉からはせき止められていた快楽の響きがあふれた。奥を何度も突かれるたび、それは滝のように止まらない叫びになる。  ふわふわと漂うような絶頂のさなかで彼は射精し、同時に親友の白濁が彼の腹を汚した。だがひとたびラットしたアルファはこれでは終わらない。荒々しく肩をつかまれ、うつ伏せにしようとする腕に彼は進んで身を任せた。獣のように四つん這いになり、誘惑するように尻を突きだす。 「倫、」  荒い吐息とともに腰をつかまれ、今度は一気に奥へ楔を打ち込まれる。柔らかな粘膜を雄が揺さぶるたび、声にならない叫びであふれた唾液があごを濡らし、シーツに落ちた。いつしか彼の膝はくだけ、シーツにぴったり胸を押しつけたまま、背中にのしかかる重みを感じている。さっきからうなじがひくひくと疼いて、別の要求をつきつけてくる。 「千……おねがい……おねがい……」  彼はわれしらず懇願していた。 「噛んで……噛んで、僕を……」 「倫」 「君のものにして」 「倫……」  名前をささやかれ、うなじに吐息がかかる。この一年、外気から保護されてきたそこは白く柔らかく、親友の唇に濡らされて、耐えがたいほどの疼きをもたらす。 「倫……ゆるせ」 「千、おねがい、おねがい……あっ―――ああああああああ!」  ただ一度で、アルファの歯は彼のうなじに深くしるしを刻みこんだ。噛まれた痛みと雄に揺さぶられる快楽とで彼の心は宙に飛ぶ。空虚だった場所が熱いもので満たされて、そこに幸福という名前がつく。    *  ああ、ここの領事さんね。見た目は怖いけどいい人なんですよ。みんなに慕われています。え? 最近見慣れない人間が来なかったか? そりゃ、ひとはひっきりなしに来ますよ。ここは居留地だから、異国の人も商人も、いろいろ。このあたりで点灯夫やってればいろいろ会うよ。  うーん、そうだな、新しい人っていえば領事館の人が最近つがいを迎えてね。あ、領事館の職員さんはたいてい異人だけど、ひとりだけこの国の人間がいるんですよ。ああ、今はふたりになったけど。ほら、ここの領事さんは優秀なら家柄とか気にしないらしくて。  つがいの人? 旦那とは昔からの知り合いみたいね。ここに来るまで苦労したみたいね。何でそう思うかって? でも男のオメガってたいがいそうでしょ。このへんにいる子もみんなそうだよ。奥ゆかしくて感じのいい人ですよ。名前も知らないし、挨拶で二言三言、喋ったくらいだけど。綺麗で頭よさそうで。噂だといい大学出てるって。偉そうな感じもないけどすごい物知りだって。だから夫婦で領事館に雇われたんでしょ。  それにしても新婚っていいよね。見てるだけで幸せのお裾分けっていうのかな、仲がよくてさあ。俺はただのベータだけど憧れちゃうね。想いが通じ合ってる感じで。ほら、他人の不幸は蜜の味っていうけど、あのふたりみてるとやっぱちがうって思いますよ。本当に美味しいのは幸福のほうですよ。そうじゃない?    * (おわり)
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