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You will be quiet #2
1
……鉄くん鉄くん鉄くん。
そう、呪文のように唱えれば唱えるほど、会いたくなる。
彼なしでは、もう生きてはいけない。
上野毛で大井町線に乗り、等々力駅に来るまでの間ーー私はまるで祈るような、そんな気持ちでいた。
いつも毎日決まって乗る、7時24分発の電車だ。
必ず私は、開く扉のすぐそばの、長椅子の脇に立つ。
電車が徐々にスピードを緩めていき、やがて止まって扉が音を立てて開くとーー二、三人あいだを置いたあとで、片手をポケットに入れた鉄くんが入ってくる……。
……つい、先日までは、そうだった。
今日も私は、神様にお願いするようなそんな気持ちで、彼が姿をあらわすのを待っていた。
でも、またしても、そうはならなかったのだ。
いったい……どうしてしまったというのだろう。
ちょっとした、パニックのようになる。
全身に、冷や汗をかいてくる。
薬は飲んできているが、息がつまり、すがるようにつり革を握りしめてしまう。
……鉄くんが、いないのだ。
私はひきつづく吐き気のような、そんなものに耐えながら、あらためて一から、この事態を考えてみた。
どうして彼は、私の前からいなくなってしまったのだろうか。
初めて私が彼と出会ったのは、ちょうどいまから一ヶ月ほど前のことになる。
私は毎朝の出勤のため、自宅のある大井町線の上野毛駅で乗り彼は等々力駅から乗ってくる。
そのときの印象は、いまでも、はっきりと覚えている。
……天使というものは、この世にちゃんと存在しているんだな。
率直にいって、そんな風に思った。
彼は毎朝、まるで判を押したように正確に、私の乗っている車両に乗り込んできた。そしてそのうちに、この私のことを、ジッと見つめるようになっていた。
そのときの彼の表情を、私はいまでもはっきりと覚えている。
彼がやがて、自然にその体を近づけてき、その手を私の体に伸ばしてきたときもーー私はそれほど唐突だとは、思わなかった。
彼の、その手や指の繊細な動きを正確に例えるならば、私の体は地球儀だ。
彼は、地球儀であるこの私を気まぐれに、くるくると回してーーここにこんな国がある、ここにあんな海峡があり、岬がある。そんな風に、いろいろと探索していく。
いらい、私は彼のことが、忘れられなくなってしまった。
何をおいても、私は上野毛駅7時24分初の電車に乗ることを、生活の最優先にするようになっていた。そんな私の期待を彼も裏切らずに、必ず毎朝同じ電車に乗ってきて、私の体という地球儀の上での旅を、続けていたのだ。
このときの至福の感覚をーーうまく言葉で表現するのは難しい。
ただ、間違いなく言えるのは、普段のお客に体をまさぐられているときとはーー何かがはっきりと違っている、ということだけだ。
行為の途中の彼は、ジッと窓の外を見ていることが多い。私はつい、漏れ出てしまいそうな吐息を我慢するのに精一杯なのだが、彼のその、いつもどこか少し悲しげな横顔は、いまも脳裏にしっかりと焼きついているのだ。
……そんな鉄くんだったが、ある日異変が起きた。
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