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時渡りて
しかし、雪治が鳥居をくぐる瞬間、何か見えない薄い膜のようなものを通り抜けた感覚がしたと思えば、そこには見知った家々がなく、あまりに灯りのない暗闇と、人々の暮らしさえ感じられないほどの静寂が、どこまでも広がっていた。
「どうなってるんだ……」
生まれてこの方、ここまでの暗闇と静寂は経験がない。そしてそこら中から感じる"人ならざるもの"の気配の多さも。神の御前とは違う恐怖を感じ、無意識に木刀を左手に持ち替えた。見られている。人ではない大量の何かが隙をうかがっている。布から木刀の柄の部分を出し、居合の構えをとる。隙を見せてはならないと本能で感じていた。
僅かながら暗闇に目が慣れてきた。少しずつ摺り足で足元を確かめながら歩き出す。その感触と音で、雪治は地面がアスファルトではないことを認識した。整備はされているが土らしき地面、灯りのなさ、音のなさ、"人ならざるもの"の多さ。まるで時を渡ったかのようだ。いやまさか。だが自分は先ほど、まさに人智を超えた体験をしたばかりだ。そのまさかも有り得よう。辺りを警戒しつつ、雪治の頭の中は高速で回転していた。
今にも焦り取り乱したい心を封じ、雪治は努めて冷静になすべきことを考える。何にせよ、ひとまず灯りや夜を越す場所が必要だ。自分の持ち物は着ている練習着の着物と木刀、帯に差している扇子だけ。灯りになるものなどない。充電が尽きてさえなければ充電しっぱなしでスマホを家に置くなどしなかったのに。雪治は独りごつ。
だが過去の自分を呪っても仕方がない。雪治はまた考えた。地面は土だが整備されているからよく人が通る場所だろう。そしてこの場所に来た時から神聖な気配は背後に感じている。同じ神社の目の前、時だけを渡ったと仮定できそうだ。となればここは恐らく参道。以前、近所の老人に昔はあの裏路地も参道だったことは聞いたことがある。つまり、真っすぐ行けば人々の住む区域へと着ける可能性は高い。自らの摺り足の音だけが鼓膜を震わす静けさの中、雪治はゆっくりと歩を進めた。
結論として雪治の読みは当たっていた。数分も歩かぬうちに木造の家々が見えたのだ。気配の方もまだそれなりに多いものの、数も敵意も神社の前ほどではない。おそらく家の隙間から洩れる微かな行灯の薄明かりのおかげで完全な暗闇ではないからだろう。雪治は小さく安堵の息を吐く。
道場帰りだったおかげで着物だし、あまりに時代にそぐわない物も持っていない。見た目で不審がられることはないだろうが、雪治は状況をどう説明しようかと考えあぐねていた。
道は土だが整備されていて、かつこの暗さと静けさ。となると江戸のどこかの時代である可能性が高い、と雪治は推察する。何も罪は犯していないが、この時代の戸籍もなければ旅人の持つ身分証もないため、役人から見れば無宿だろう。幸いこの時代でもあの神社は市中にあったようで、閉ざされているはずの門の内側には入れているようだ。しかしどう見ても深夜の今、宿もやっていないだろうし、そもそもお金も持ち合わせていない。
雪治は途方に暮れたが、そのうち部屋の間取りの関係なのか最も洩れる明かりが強い長屋の隅に座り込んだ。明らかに詰んでいる状況に諦めてしまったのか、心身ともに限界だったのか、そのまま彼は意識を手放す。
だが1時間もしないうちに雪治は目覚めることになった。"人ならざるもの"の悪い気配が強まり、抱えていた木刀を握って臨戦態勢で周囲を警戒する。
「きゃあっ!」
ひとつ先の路地から若い女性の悲鳴が聞こえた。思わず走って向かった雪治の目に飛び込んできたのは、腰を抜かした町娘と、今にも彼女に飛び掛からんとする犬のようなものだった。犬と形容するにはあまりに"人ならざるもの"の気配が強いそれは、雪治には目もくれず町娘に襲いかかった。雪治は咄嗟に間に入り、木刀でその一撃を受ける。
"それ"は一度飛び退いて距離を取り、今度は雪治を狙って飛びかかる。雪治はそれを必死に木刀で防いでいたが、何度目かに防いだ時、"それ"が何か悲鳴のようなものを上げて一層大きく飛び退いた。見れば、木刀にところどころ光の粒子が付着している。その光があの神社で神に授かった力だと、雪治は瞬時に理解した。どうやら神に授かった力は"人ならざるもの"へ対抗するためのもののようだ。
ならば、今は粒子が付いているだけの光を木刀を覆うようにできれば、もっと効果があるのではないか。"それ"が木刀を警戒して間合いを取っているのをいいことに、雪治は力の扱いを試みる。授かった際には暖かく澄んだひとつの力だと思っていたが、こうして全身を巡る力を辿ってみると、その動きは暖かい力と澄んだ力のふたつあるようだ。
目の前に命さえ脅かされる明確な敵がいるからか、どうにも頭が冴えるようだ。どちらの力がどのように全身を巡っているのかも、木刀に滲んでいる光の粒子が澄んだ力の方だということも、その力をどうやって木刀全体に纏わせるかも、雪治はすんなり感覚を掴めてしまった。
木刀全体を光で覆い、正眼の構えで"それ"と見合う。"それ"は木刀を警戒してはいるが、どうやら退く気もなさそうだ。ならば、と雪治は意を決した。小さく息を吐くと、踏み込んで斬りかかる。かわされ右から飛びかかられるが、振り下ろした木刀を瞬時に左へかえして斬り上げる。"それ"は断末魔を上げて消え失せた。
勝った。生きている。そう思った途端、雪治はその場に崩れ落ちた。木刀を抱きかかえ、小さく震える。守られた町娘に言われた礼さえ聞こえないようだ。そう、雪治には生死をかけた実戦経験などない。若き天才剣士と呼ばれることもあれど、それはあくまで剣術である。戦のない時代に生まれた彼が持つ実戦経験など、素人の刃物男の検挙に貢献したことくらいだ。
つまり雪治は怖かったのである。ただ必死で、必要に迫られた結果の冷静さで、なんとか戦うことはできた。しかし、勝った安心感で恐怖に襲われ震え始めた雪治を、町娘がそっと抱きしめる。その温もりにハッとした雪治が顔を上げれば、町娘は彼の手を握って微笑んだ。
「あんたは命の恩人だよ。ありがとう」
彼女の笑みにつられるようにして雪治も小さく微笑んだ。それから町娘はおりんと名乗り、雪治を家へと招待した。聞けば、厠に立った際に外から物音が聞こえたため泥棒か何かだと思って戸を開けたと言う。
「……相手が人でも襲われたらどうするつもりだったんですか」
「そんときはこの簪で目でも突いてやろうと思ってさ」
雪治は"人ならざるもの"に襲われたのにもう明るく笑っている彼女に感心した。それに比べてまだ少し震えている自分が酷く情けなく感じて、雪治は僅かに目を伏せた。
「けどさ、あんたが来なけりゃきっと死んでた……本当にありがとね。あんたがなんでこんな時間にいたのかも、どこの誰なのかも聞かないどくよ。あんたは私の命の恩人の雪治さん。それで充分さね」
物わかりのいいおりんの言葉にありがたく乗っかり、雪治は名前以外を明かさなかった。本当のことを言ったところで信じられないだろうし、自分でもまだわかっていないことが多すぎる。初めての命をかけた実戦による震えは、底抜けに明るいおりんのおかげで徐々に治まっていった。それからおりんの勧めで雪治は彼女の家で眠ることにした。
だが眠りについた雪治は暖かい光に包まれ、おりんの家から姿を消した。
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