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丑の刻の武士
翌朝、目が覚めたおりんは雪治がいないことに気がつくと、すぐに辺りを探し回った。だが誰に聞いても見ていないと言う。突然現れて"人ならざるもの"――この時代の者たちは大概がそれらを"妖"と呼ぶ――から守ってくれた恩人はいったい何者だったのか。
本人には事情を聞かないと言ったものの、おりんは彼のおかしな点には気がついていた。旅人にしては小綺麗な身なり、どう見ても寝間着ではないそれは丑の刻に外にいたことを示し、戦っている時の綺麗な太刀筋は百戦錬磨の武士のようだったのに、終わってから震える姿はまるで戦ったことがないみたいだった。木刀を包んでいたあの布と紐も、旅人が持つには綺麗すぎた。
厠に立ったのも、妖に襲われたのも、それを助けられたのも、雪治を家に入れて寝かせたのも、すべて夢だったのではないかとも思う。けれど、おりんは夢として片付けることはできなかった。朝起きた時、雪治のためにお茶を淹れた茶碗は厨に置いたままだったし、雪治のために敷いた布団もそのままだったからだ。
おりんは茶屋や宿屋、蕎麦屋なんかにも顔を出して探したが、やはり雪治は来ていないと言う。まさか役人に捕まったかと訪ねてみたが笑われて終わり。雪治がいた痕跡は自分の家の中にしかなく、彼が倒した妖は消え失せたため戦いの跡もなく、本人どころか町には雪治のいた痕跡さえ何もない。
命を救われた礼を何も返せぬまま消えてしまった、とおりんは肩を落とす。突然現れて妖を打ち倒し、その晩のうちにすっかり消えてしまうなんて、彼は神の遣いか何かだったのだろうか。だとしたら、なんて人間らしい遣いだろう。本当に神の遣いかはわからないが、次に誰かが妖に襲われることがあってもまた彼が救いに来て無事で済むように祈っておこう。そう考えたおりんはあの神社に参拝し、どこかへ消えてしまった命の恩人の無事を祈った。
なお、おりんが雪治を探し回った際に深夜の出来事をそこら中で話したことにより、市中で雪治が"丑の刻の武士"として有名になったことを本人が知るのは――まだ先の話である。
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