第一話  秋風 その2

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第一話  秋風 その2

浪人加藤一ノ辰は、品川の楼閣辰巳屋に番傘を納めた帰り道であった。高級和紙に達筆で「辰巳屋」と墨書して、油紙で仕上げた番傘は評判で注文も多かった。  そろそろ、あたりが暗くなる夕七ツ゚金杉橋のたもとで橋の左側の欄干の下ににうずくまる若い娘がいた。右脇腹を押さえる姿があまりに痛々しいため一ノ辰が娘に近づいて声をかける。 「娘さんどうしました どこか具合が悪いのかな・・」  娘はまだ十八くらいに見える。若く初々しい。首筋は汗でびっしょり濡れ、とても尋常には見えない。 「少し下腹が痛いのですが・・」額は汗で光っている。 「大丈夫でござるか。お送りしましょうか」  娘はか細い声で、  「お世話になり、ありがとうございます。急に、下腹が痛み出しまして・・しばらく休めば、大丈夫と思いますが・・・」 「それはいけない。やはり送って参りましょう」  か細い声で娘がつぶやいたが、目はうつろで、髪も着物も乱れている。 「それが・・何も思い出せなくて・・なぜわたくしが、こんなこんなところにいるのか必死でにげてきたような・・・」うりざね顔の娘。 「娘さんあなたのお名前は。家はどのあたりでござるかな」 「それもはっきりしなくって・・思い出せないので・・困っております」  一之辰はただごとでない様子の娘に異変を感じて、 「はて、どうしたものか」ほんの一刻思い悩んだ。  娘は息も挙がって苦しそうだ。すっかり弱り切っている。それでも健気に耐えている。端正な目はうつろで冷汗は引かない。 「娘さん。このままここにいるわけには参らん。夜も更けてくる。家が思い出せないなら、落ち着くまで拙者の家で休まれてからにいたしてはいかがかな。拙者はこの近所に住まいおります。鍵屋横丁の長屋に住んでおる浪人の加藤一ノ辰というもので、怪しいものではござらん。拙宅には家内もおりますでな」  がっしりとした中肉中背の一ノ辰が促す。 娘は何も答えずぐったりしている。娘の額に手をやると燃えるような熱さだ。全身は、汗でびっしょり濡れ、まるで風呂上がりのようだ。 「いや、これはいかん。拙者の肩に」  華奢な娘の右腕をグイっと抱き上げると、ゆっくりと金杉橋を七軒町に向かった。もうすっかり暮れ、闇が立ちこみ始めた通りに、冷たい北風が江戸湾に向かって吹く。  鍵屋横丁の木戸を抜けると、井戸端で竹ブラシで歯を磨く寺子屋師匠 菊地三乃丞が声をかける。 「あれ、一ノ辰様。この夜更けに。おや娘御が。いかがいたしましたか。その娘御弱っておられるようだ」 「番傘を納めた帰りにな、金杉橋のたもとまで来てみると、この娘御が、ずっと苦しそうにうずくまっておって、名前も思いだせんそうでな。はて、 どうしたものかと。とりあえず拙宅で休ませてと、背負ってきたところじゃ」 「それはいけませぬな。さあ私も手を貸しましょう」  ふたりはその娘御を一ノ辰家の戸口へと運ぶ。  「あれ いかがいたしました」  妻女お里はびっくりしながらも、娘を奥の部屋へと迎へ入れる。 「こんなに濡れて。娘さんあなたのお名前は・・・。お宅はどのあたりですか。とにかくまずこの着物を。わたくしの着物に替えなされ」  お里はてきぱきと娘の身体をぬぐい、手早く自分の着物を着せた。   娘の目は依然としてぼんやりとうつろで、お里をじっと見やるのみだ。 「額もこのように熱く、とにもかくにもお休みなされ」  熱さましの漢方薬を娘に飲ます。まだ娘はうつろに天井の一点を見るのみだ。夕刻からの雨も上がって、秋の宵の闇が早めにやってきた。  ーーいや。困ったことになってきた。娘の親元が分からんが、どうしたものかーー一之辰と三之丞は顔を見合わせた。  菊池三乃丞は今日は久しぶりに駒込天神下 堀内道場で稽古で汗を流した後、旗本の次男畑山幸太郎とーー久しぶりだ付き合えよーーという誘いで街中で飲んだ帰りであった。   「このままでは埒があきませんね。どうですか。裏の大円寺の和尚に相談してみましょう」  三乃丞も弱った人間をほうておけない性分であった。 「やーそれは助かる。貴公と一緒に事情をはなしてみようかの」  やっと落ち着いて少し熱も下がった娘を従えて、裏の大圓寺へと向かう。鍵屋長屋は寝静まりあたりは漆黒の闇夜であった。  長屋のちょうど南側に隣接して、大円寺の小さな裏木戸がある。和尚の大覚方円は少し変わった経歴であった。宝蔵院流の棒術の名手でもあったが、京都知恩院から許され、坊主と武芸者の二つの顔を持っていたが、その話はまた後日にしておこう。方円和尚は長屋の困りごとには、なにかと相談に乗ってくれていた。  小袖を纏い、やっと少し落ち着いた様子の娘は、それでもまだ目はうつろで腕は小刻みに震えている。必死に思い出そうとしていたが。方円和尚の、今日の般若湯のお楽しみ時刻はとっくに終わっていた。 「和尚様。実は金杉橋の東たもとでこの娘が倒れており、熱もひどく、拙宅に連れ帰りましたが、自分の名前も、なんでこうなったかも、分からない様子で・・いやはや・・困り果てております」と一ノ辰。 「いやそれは困ったな。今宵はもう遅い。まあしばらく記憶が戻るまで寺で預かることにしようかの」  方円和尚はじっと娘を見定める。 「それは助かります」
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