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『黒猫の魔法』
「俺……医者になるの、やめるわ」
榎本 一哉は、白い息を吐くと共に呟いた。
「何言ってるのよ。もうすぐセンターでしょ。
後ちょっとくらい、がんばりなよ」
広井 結未は、一哉の言葉をほんの浪人生の戯言だと思って答えた。一哉は、黙って前を見ながら歩き続けた。
「一哉? ……本気なの?
大丈夫だって、次は絶対受かるよ。
一哉こんなにがんばってるんだもん」
一哉の顔が曇る。医者という夢を目指して、予備校とバイトの日々に耐え、ここまでがんばってきた。
しかし、それに何の意味があるのだろうか。
次第に一哉の歩くペ―スが上がっていく。
「医者になるのが夢なんでしょう?
一緒に医者になって病院開こうって、約束したじゃない!」
結未と一哉は、高2からの付き合いで、同じ医学部を目指していた。
しかし、結未だけが大学に受かってしまい、自分は浪人生というレッテルを貼られて取り残された。
一哉は無言のまま、歩幅を広げ続ける。その後から早足で着いてくる結未の説得が続いた。
「そうだ! ねえ、また昔みたいに、一緒に勉強しようよ。
夜、バイトが終わってから、一哉のアパートで。私、夜食作ってあげる」
ね、そうしよう、っと明るく励まそうとする結未に、一哉はいきなり立ち止まって怒鳴った。
「何をしようと俺の勝手だろ!」
結未の身体が硬直する。今まで何度か喧嘩をしたことはあったが、こんな一方的に怒鳴られた事はない。
「初めから医者になる気なんてなかったんだ。
お前が医学部受ける、って言うから……
特になりたいものもなかったし、別にいいかなって思っただけで……
お前はお前で、大学のサ―クルでも何でもやってりゃいいだろ!」
一哉の怒りに対し、結未は、返す言葉がない。確かに、大学へ行ってからの結未は、サ―クルで知り合った新しい仲間と過ごす時間が楽しくて、一哉と過ごす時間がめっきり減っていた。一哉の勉強の邪魔をしたくない、というのは建前で、本当は、自分だけが大学に受かってしまったことへの後ろめたさと、そんな一哉に向かって大学生活の話をしづらいというのもあり、自然と二人の間には距離が出来るようになっていた。
これまでもそれに気付いていて、気付かないフリをしてきたが、もうこれ以上隠し通すことは出来ない。結未は、今にもこぼれ落ちそうな涙を赤い顔をしてぐっと堪えていた。お陰で、一哉の見たくない顔を見なくて済む。
「もう、ほっといてくれよ」
一哉は、結未に背を向けてそう言い捨てた。結未の泣き顔を見るのが辛かった所為でもあった。背後で、小さく「ばかっ」っと呟く声がして、一哉は全てを失った。
(くそっ……)
背後に走り去るブ―ツの音を聞きながら、一哉はゆっくりと歩き始めた。まだ、これからどうするかは考えていない。ただ、考える時間は、これからたくさんある、そう思っていた。
その時、一哉の背後から耳を裂くようなブレーキ音と共に、何かがぶつかる鈍い音がした。振り向くと、一台の車の前に横たわる結未の姿があった。
「ゆみ!!」
一哉は横たわる結未に駆け寄ると、上半身を抱き寄せた。真っ赤な血が結未の頭から滴り落ち、一哉の腕を伝った。
「結未? 結未、ゆみぃ……!」
何度名前を呼びながら揺さぶっても、結未の反応はない。自分の吐息だけが白く濁っては消えていく。
でも、不思議と寒さは感じなかった。
一人の男が車から降りてきて何かを叫んでいたが、一哉の耳には入らなかった。周りを走る車の騒音やクラクションの音も、いつの間にか消えていた。
腕の中で結未の白い顔がひどく印象的だった。口を開く度に染まる白い息。
ただただ、真っ白な世界だった。
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