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指輪のあと
僕は空港の中のコーヒーショップで、
緊張のあまり1口しか飲んでいない冷めたコーヒーを握っている。
僕たちは、ついさっき初めての待ち合わせを終えて無事にこうして出会えた。
先に着いた僕が、居場所と服が分かるように写真を送っておいたから君はスムーズにここまで来れたそうだ。
そしてついに、僕と出会った君は……声をなくして、もともと大きめな目をさらに丸くしていた。
驚きのあまり、口元を手で覆ったまま固まっていた。
君の頭の中の様々な疑問に答えを出すように、僕は一瞬だけマスクを下にずらして顔を出し、ニコッと照れ笑いした。
そして、たくさん練習してきた日本語での君への初めての言葉。
「ハジメマシテ」
僕の声まで聞いた君は、さすがに目の前にいるのが自分の推し「本人」である事は理解したようだ。
そして、まわりをキョロキョロ見た君からやっと出てきた言葉。
『なんのドッキリ?!』
その声は震えていて今にも泣きそう。想像以上に君が驚いてくれたので、思わず僕は笑ってしまった。
「僕ひとりです、カメラはないよ」
僕の二言目を聞いた君は、本当に自分が待ち合わせした相手が僕であったカラクリを受け止めて、ついに大きな目から涙が溢れてきてしまった。
驚いてくれるのは嬉しいんだけど、さすがに泣かせてしまって僕も慌てる。
ひとまず、君にも席に座ってもらう。
僕があまり人目につかないよう、外に飛行機が見える大きな窓に向かっているカウンター席に座っていたので、君は僕の右隣に座った。
「ビックリさせてごめんね?」
と僕が謝ると、ううんと首を横に振りながら君は涙をこらえて現実を受け止めようとしてくれている。
少し落ち着くのを待つ間、やっと自分がコーヒーを1口しか飲んでいないことに気づいて、マスクをずらして少し飲んだ。
それに気付いた君が、またやっと一言。
『カウンター席で良かったぁ…』
「ん?」
どういう意味かなと思って君の方を向くと、君はすぐに目を逸らして窓の外を見ながら話す。
『ちょっと、まだいきなり正面から直視できないなと…横でよかったなと思って』
『あ、意味わかる?』
と疑問形になって、うっかり僕の方を向いた君は、僕が君の目を見てうんと頷くとまた慌てて前を向いてしまった。
僕もこんなふうに誰かを待ち合わせに誘ったのなんて初めてなので、とても緊張している。しかも近所で会うのとは違う。
国まで飛び出してきている身だ。
それだけで、僕がどれだけ無茶をしてまで君に会いたかったかがバレているかと思うと耳まで赤くなりそうだ。
だけど、あまりに君が驚いてくれたので可愛くて少しだけ余裕が出てきた。
「泣かせて、ごめんなさい」
『ううん、大丈夫ビックリしただけだから。それにしても、どうしてヲタクのフリなんてしてたの?』
「僕もメンバーのこと大好きだから、僕もヲタクだよ」
『まぁ、それはよく知ってるけど。そうか……うん、なんか納得したわ』
そう言ってやっと君が笑ってくれた。
つられて僕も笑う。
話し方が落ち着いているな、僕より少し年上かな?なんて考える余裕も出てきた。
なにしろ今まで推しの話で持ちきりだった僕たちは、本当にお互いの素性は知らなかった。
『よく日本に来る時間あったね、今日お休みなの?』
「時間、作った。どうしても会いたくて」
『そりゃそうだよね、今お休みなんてないよね!忙しいのに、わざわざありがとう』
初めて会うとはいえ、僕の事は彼女の方が詳しいかもしれないくらいだ。
なんでもお見通しで、本当に照れる。
そんなふうに少しずつ話せるようになって、あっという間に1時間が過ぎた頃、君が確認してくれた。
『何時の飛行機で帰るの?』
「あと1時間くらい」
『そっかぁ…じゃあこのままここでギリギリまで話してるのが、1番たくさん一緒にいられるかな』
「うん、それにあんまり…」
『出歩けるお顔じゃないしね!』
冗談まじりに、君がそう答えるくらいには打ち解けられた。
やっぱりちょっと無理してでも、来てよかったな。
ふと、そろそろ飲み物を飲み終わりそうなカップを握る君の手に、違和感を見つけてしまった。
さすがに左ではないけれど、右手の薬指に指輪のあとがある。
ということは、最近までそこに指輪が存在したということ…?
気付いたら気になってしまうけれど僕には、さすがにそれを失礼のないようにさりげなく聞くような日本語の準備がなかった。
すると、僕の視線に気付いた君が正直に説明してくれた。
『これね、つい最近まで付けてたやつの跡がついちゃって。長くお付き合いしていた人と、別れたばかりなんだ』
君に苦笑いをさせてしまった。
君の笑顔が見たくてここまで来たのに。
素性を知らない僕たちだったから、それは十分にありえる事実だ。
だけどまぁ、待ち合わせを断られない時点で大丈夫かなとは思っていた。
いざ現実に突きつけられると、思ったより胸が痛む。
それは同時に、本当に自分でも思っている以上に君の存在が大きい事を意味する。
もっとゆっくり話がしたいし、もっと君のことを知りたい。
だけど、そろそろ僕は行かなければならない。
「また僕が時間を作って会いにきたら、会ってくれますか?」
勇気を出して、聞いてみる。
今日会ったばかりでおかしいかもしれないが、いま聞いておかないと、僕は飛行機に乗って日常に戻ったらまた分刻みのスケージュールに追われてしまう。
それは君もあまりによく知っている現実。
だから君は、数分その場で切ない顔や難しい顔をして一生懸命僕に返す言葉を探してくれた。
『正直に言ったら、嬉しいしかない。あなたが今日私の目の前でくれた言葉を信じてるし、本当はその言葉たちにすがりつきたい。でも……』
そこまで言うと、君は翻訳アプリで大事な言葉だけを変換して、僕の国の言葉で伝えてくれた。
『그 때가 되면 다음에는 제가 만나러 갈게요』
(その時がきたら、今度は私が会いに行きます)
君と話をするために、日本語を準備してきた僕への、君からのお返しだった。
『ごめんね、次までに私も勉強するね』
と、君がはにかんで続けた。
『今は、あなたも大切にするべきものがたくさんある。私はあなたのファンだからこそ、それを大事にしてほしい。私が会いに行くその時には、こんな指輪のあともキレイになくなってるし!』
僕だってわかっていた、今この時間も本当は許されることではない。
それでも会いに来てしまった。
でも、君に会いに来たことに後悔はない。
やっぱり君は、会ってみても素敵な人だった。
またすぐには会えないけれど、約束の証明として初めてSNS以外の連絡先を交換した。
『会いにきてくれて、ありがとう』
「ううん、僕と会ってくれてありがとう。来てよかったです、また連絡します」
『うん、またね。いつか必ず会いに行く』
僕たちは、それぞれの日常に戻った。
僕の初めての思い切った行動は、夢のような時間だった。ずっと、忘れられないと思う。
僕の複雑な気持ちをともに乗せて、あっという間に帰りの飛行機が僕の日常へと連れ戻してくれた。
降り立った空港は、さっきまで君といた空港とは違って、僕の気持ちに寄り添うかのような雨だった。
『おかえり!』
メンバーの1人が車で迎えに来てくれていた。
「ありがとう」
僕の顔を見て当然のように全てを見透かした彼は、ひと言だけ僕に聞いた。
『後悔はしてない?』
「うん、後悔なんてしてない。行ってよかったよ、行かせてくれてありがとう。今日から、またもっと頑張るよ」
『それならよかった、みんな待ってるよ』
そう言って彼は車を走らせた。
こんな素敵な仲間と一緒に、僕はまた今日から頑張る。
指輪のあとなんて気にならないくらい、余裕のある大人になっていられるように。
いつか君と会える日まで……。
その時、胸を張って君と会える僕でいられるように。
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