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そうこうしている内にどこも葉桜ばかりになってしまった。季節というのは知らない間に過ぎ去ってしまい、振り返るともう手が届かない。
けれど僕が停留所で大きく揺れて停車したバスから下りると、歩道を観光客の列が歩いていく。彼らには季節というのはあまり関係がないのかも知れない。
河原町通は相変わらずの人の多さで、その中には日本人よりも別の国の人間の方がよく目立った。
僕は人混みに酔いそうになりながら、信号を渡る。
アーケードの下、三条通を進んでいくとやがて寺町通と交差している辺りで、その人混みが徐々に減っていく。
そこから路地に折れて、適当なカフェを探す。
いつも新しい場所を探す時は、独特の緊張感と期待感が同居している。
それは恋の出会いに、少しだけ似ているかも知れない。
京都の町は小さな通りが多い。碁盤の目のようだ、と言われるけれど、大きな昔からある通りを除けば、入り組んだ狭い路地が多い。昔は鰻の寝床と呼ばれた玄関から奥までずっと細長い家が多くあった所為だろうか。どうにもせせこましい印象を受ける。
それでも不意に現れる知らない店との遭遇が、この町に住み始めて一番気に入ったポイントかも知れなかった。
店先に小さな黒板が出ているその店は喫茶店ではなかった。
イタリア料理だろうか。
窓ガラス越しに中を見たが、まだ準備中なのか客がいない。髭を蓄えた外国人シェフと逞しい体格の女性が談笑している。ゆっくりできそうかどうか考えてから首を振り、僕は別の店に足を向けた。
何故こうしてまた別の喫茶店を探すことになったのか。
その理由は実に単純だ。
――恋。
漢字で一文字、ひらがなにすれば二文字のその現象は、あってもなくても、色々と問題を持ち込んでくれる。特に恋愛状態に入るとお互いの適度な距離感について気を遣わないと、その世界はたちまちに崩壊し兼ねない。
だから僕はまた原稿に“世界は窮屈だ”なんて書いてしまうことになるのだが、こればかりは僕だけの問題ではないから仕方ない。
できれば今日中に新しい仕事場となる喫茶店を見つけたい。でなければ今月分の原稿は間に合わないだろう。
幾つか店を見て、別の場所に変えようか、と思った時だ。スマートフォンが鳴った。
音がしているのをどうやって止めればいいのか。
そんな風にまごついている内に、スマートフォンは何も言わなくなった。
画面には何かの通知が一件と表示されていて、僕は恐る恐るそこに触れる。
> 仕事がもう上がりになったから、新しく出来たイタリア料理の店で一緒に早い夕食にしませんか?
彼女は束ねた髪を解いて、制服のベストを脱いでいるところだろうか。
僕は了承の意を伝えるための二文字を懸命に打ち込んで無事に送信を終えると、恥ずかしくてとても足を踏み入れることが出来なくなったあの店で、もう一度だけ国産チーズ入りのカレーを味わいたいな、と思った。(了)
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