出会い

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 ずきんと右手首に覚える痛み。 ──ただの使い過ぎだったらいいのだけど。  痛みをこらえて何とか仕事を終えた茜は、そそくさと会社を出て帰宅する。幸い、明日は仕事が休みだ。一晩寝ても痛みが治まっていなかったら明日こそ受診しようと思いながら帰宅したアパート。着ていた作業服を脱いだ茜は、下着姿のまま部屋の隅に立てかけているアコースティックギターに視線を送る。 ──もしも腕の痛みが治らなくて、今日がギターを弾ける最後の日になるのなら。……それでも私は弾きたい。  茜は第二の作業服といっても差し支えのない衣装に身を包んだ。黒地に派手な蛍光色で卑猥な英文がプリントされている長袖Tシャツにダメージ加工のジーンズ。肩下の髪をまとめて無理やりキャップに押し込み、デニム素材のジャンパーを羽織った。三月末とはいえ、まだまだ外は寒い。  私だが私でない誰か。ギターを担いで、茜は大和田茜からただの名もなきストリートミュージシャンになる。  大きくも小さくもない私鉄の駅前ロータリーが、茜のライブステージだ。ライブ場所を巡っても転々としていた茜が、つい数日前に落ち着いた場所。  密かに書き溜めていた楽曲はあったが、特にプロを目指しているわけではない。というか、趣味のようにギターをかき鳴らして歌うだけの自分が、到底プロとして通用するわけがない。そう自分のことを分析した茜だった。  思い切って初めて路上で歌った日。観客は皆無だった。それなのに胸を占める熱い思い。自分が気持ちいいと思うままに歌ってもいいのだと、茜はその時知った。 ──もしも今夜が最後となるなら、せめて自分のためにベストを尽くしたい。  手首の痛みをこらえて茜はギターを構え、アルペジオをかき鳴らす。  今夜が最後となるなら、ぜひ歌いたかった楽曲。茜が生まれて初めて作詞作曲したものだ。荒唐無稽で、自分の声質を全く無視したメロディライン。だからいつも、サビは叫ぶような発声になってしまう。  それでいい。どうせいつも通り、聴いてくれる人なんていないし、人に聴かせようとも思っていないから。  この日、茜は何もかもを忘れて歌に没頭した。
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