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(六)みっつの願い
藩邸に戻った宇七は、仁左衛門に奥の帳簿部屋に呼ばれる。帳簿とそろばんに囲まれた密談部屋だ。
「どうであった?」
「薬箪笥を千賀さまにお届けしました。それから、とのものかみ、というお役人に銅座の不正について報告しました。その方に、わしに仕えろと言われました。」
「そうか。で、どう答えた?」
「いまお仕えしている上様の御意向があるので、と断りましたところ、わしと今の御主君と同時に仕えよ、と。」
そこまで聞くと、仁左衛門は新之丞を呼んで来いと命じた。新之丞と宇七が並んで座ると、仁左衛門が口を開いた。
「久石新之丞。工藤宇七郎。御庭番に任ずる。表向きは水野家に仕え、そのじっさいは、ご公儀の御庭番として動くのだ。命がけで働け。」
御庭番とはなんだろう…?小石川の御薬園の世話係ようなものだろうか…宇七が話を飲み込めないでいると、仁左衛門が続ける。
「新之丞、宇七郎、おぬしらは、ともに旗本の次男坊である。部屋住み禄無しで終える者も多いのに、さいわいにも水野のお家は、所領拡大、藩士の召し抱えの真っ最中。このような幸運に恵まれたのだぞ。」
仁左衛門は恩着せがましく言う。
「その代わり、おぬしが死んだときに、おぬしの望みが三つかなえられる。言ってみよ、宇七郎。」
「え…みっつも叶えて頂けるのですか?」
「うむ。」
宇七は少し考えた。自分が死んでしまったあとに、夢が叶えられると言っても…なかなか難しい。
「それじゃあ、伊豆にいる実の父と母、とくに母が苦労しないようにしてやってください。」
「うむ。ひとつめじゃな。」
「ふたつめは、亀次郎さんが陰間で身を売らなくて済むように面倒を見てやってください。昆布の佃煮屋でも持たせてやれば、商才があるのできっとうまくやります。」
「ふむ。最後は?」
「…川越の城下町に、仕出しの料理屋が並んでいる横丁があります。そこに住む宗次郎という若い男と、その姉のお駒に、毎年、砂糖を送ってやってください。」
「…砂糖か。変な願いじゃな。」
「菓子屋なのです。」
隣りにいる新之丞がそんな願いでいいのか、といった顔をしている。
「あいわかった。それでは下がって次の沙汰を待て。」
「はっ。」
御庭番をするなら、これから少し本草の勉強をしなくては…と宇七は思いなおし、新之丞の部屋を訪ねた。
「新之丞どの、本草の御本をお借りしたい。これから御庭番ですからな。」
新之丞がぴたりと止まった。
「…御庭番の意味をご存知か?」
「小石川の御薬園など?」
「…宇七どの、御庭番とはご公儀の隠密でございます。旗本などから選ばれ、敵地にて密偵をいたしまする。」
「なに!?」
「しーっ。」
「それでは、死んで叶えられるみっつの願いとは、大げさではないのですね?」
宇七がわざわざ石切りの村から旗本に養子縁組されたのは、ご公儀の隠密として穴を掘るためか…!
「新之丞どの、私が千賀邸で会った、とのものかみ、とは誰かご存知か?」
「田沼意次公でございます。お屋敷の場所から、神田橋さま、とも呼ばれておられます。」
「…なぜ、とのものかみ?」
「田沼様は主殿頭、水野の上様は出羽守、みな殿中の役職というか呼び名です。」
「俺は田沼公に直接ご報告を申し上げたのか…」
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