29章 江戸の大火と秩父の山師

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(四)源内の三つの夢 「…わかりました、わたくしが福助さんの様子を見てまいりましょう。亀次郎さんはお屋敷を出てはなりませんよ。」 「ええ。怖いもん。」 新之丞は久しぶりに平賀源内を訪ねる、という名目で御殿医の千賀邸を訪ねた。 源内が居候する千賀屋敷は、正月を迎えるための準備に追われていた。 「源内先生、おひさしぶりでございます。」 「よくいらしたね。せんだっては大阪での活躍ぶり、あんたがたふたりはいい相棒だ。で、今日はおひとりでどんな御用でいらした?」 「はい、戸田旭山先生のお屋敷で見た、不思議なものについて。」 新之丞は箒屋町にある旭山の薬草園で見たあやかしについて話した。 戸田旭山は診察してやらなかった子供が死んだのを知り、自責の念にかられて死の床についたこと、今でもその魂が、悲しそうな顔で痢病に効く薬草を見下ろしていること… 「そうかい、旭山先生の心は、まだあそこにいらっしゃると…」 「はい。現世でたくさんの患者を診てやれなかったこと、自分が広く世を助ける調薬をしなかったことを後悔していらっしゃるふうでした。」 「なるほどねぇ…」 そのうえで、新之丞は重ねて聞く。 「源内先生は山師でいらっしゃる前に、当代一流の本草学者でいらっしゃいます。もし、先生が…」 源内がその先を言わせずに続けた。 「それはあたしの夢なのさ。あたしは隠居したら、自分の窯で皿や壺を焼き、自分の薬草園で薬をつくり、自分の赤ん坊を育てたいと思ってるのさ。」 「焼き物と薬と…赤ん坊…ですか?」 焼き物と薬はわかるが、女や家庭に興味がないことで有名な源内が、赤ん坊とは意外な話だ。 「奥様はなしで、赤ん坊だけですか?」 「あぁ、女はあんまりおもしろくないから…まぁ、女もちゃんと武芸や学問をさせれば面白いんだろうけどねぇ。そんなのはあんまり、いなくてさ。話が合わないひとと、あたしは気持ちが通じないんだ。…だから子供だけ欲しいの。」 話が不思議なほうに向かってきた…新之丞は煙に巻かれた気分だ。 「子供を育ててどうなさるのですか?」 「せっかく数百年ぶりに平賀を名乗ることができたんだ、誰かに継がせたいのさ。」 源内はもとは白石国倫という名で讃岐高松藩に仕えていたが、ときの藩主の許しを得て平賀姓を再興したと聞く。信濃源氏大井氏流平賀氏の末裔を名乗っており、これは鎌倉時代には北条氏と競り合った名門中の名門だ。 「お国元にお家を継いだ御親族がいらっしゃるのでは…?」 「あれはもう、白石という家だからね、あたしは自分の代で平賀の名を残したいんだよ。」 「なるほど…」 部屋に入ってきた若い男がいた。福助だろうと思って目をやった新之丞は、それがまったく違う別人なのに気付いた。 「あの…福助どのは…」 「福助さんは、もういない。」 「えっ?」
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