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(三)別れの朝
翌朝、宇七はおたねの接吻で目を覚ました。
「もう朝か。」
おたねが宇七の体を静かに目覚めさせ、ふたりはまたひとつになる。宇七は自分の腹の上で声をあげるおたねを見上げながら、これが最後の交わりなんだな、と複雑な気持ちになった。
ーせっかく出会って、気持ちが通じて、だけど、別れるんだな。
人生は、ままならない。とくに宇七もおたねも、しがらみが多い。
寝所を出るときに、おたねは宇七の目を見ようとしなかった。堤重として身を売ったあとに、いつもそうだったように。
「なぁ。」
宇七がおたねに声をかける。最後に、俺を見つめてくれ。そしたら、あと百年はお前を思っていられるから…
「ありがとうござりんした。道中お気をつけて行きなんし。」
おたねが頭を下げた。顔を上げるのを、宇七は待ち続けたが、とうとうおたねは顔を上げずにくるりと奥に入ってしまった。
新之丞と亀次郎は旅支度をして、宇七を待っていた。
「さぁ、行きましょう。明るいうちに白子湊までたどり着かなくては。」
「ああ。」
亀次郎は可愛い顔が目立たないように、深い三度笠を被って、道中合羽を着せられている。
「…変装か。」
「本人も顔が見えないと安心するようです。」
「新之丞どの、ひとつだけ、頼みが…松坂を通るときに、かんざしを一本、買う時間をくれ。」
「ええ、松坂のような人通りの多いところで休憩をするのは良い考えです。そのあいだに買い物もしてください。」
「かたじけない。」
松坂に着いた宇七は、三井越後屋の隣にあった小間物屋に立ち寄り、店主に声をかけた。
「このかんざしを、古市の油屋に届けて欲しいんだが。駄賃は払う。」
「へえ。小僧に行かせましょう。どなたに?」
「おたねという娘に。言伝も頼む。」
「へえ。なんと?」
「やっぱり来世じゃなくて、この世で一緒になろうと。」
「へえ。お任せください。」
小間物屋は委細解したと言わんばかりに、にやり、と笑うと小僧にかんざしを渡し、指示を出した。宇七は古市に向けて走り出した小僧の後ろ姿をずっと見ていた。
おたねのところに走っていける小僧が、うらやましかった…
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