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(五)根南志具佐と亀次郎
江戸へ向かう船の舳先に腰かけ、魚を釣るのが宇七の日課になった。釣った魚は、伊勢海老漁師に言われたとおり、細かくして伊勢海老の生簀に放り込む。
水が嫌いな新之丞と、肌を焼きたがらない亀次郎は、たいてい船倉で過ごしていた。ぺちゃくちゃとおしゃべりをしたり、碁を指したりしているようだが、新之丞はじつは注意深く亀次郎を見張っている。そうとは気付かない亀次郎は少しづつ以前の天真爛漫な気分を取り戻していた。
宇七が釣り糸を垂らしてぼんやりしていると、珍しく亀次郎が甲板に上がってきた。
「宇七さん、考えごと?」
「あ、あぁ、うん。もの思いだ。」
「どんな?」
「好いた女からひと漕ぎ、またひと漕ぎと、離れてゆくのを、な。」
「あら?」
亀次郎が不思議そうに声を上げる。
「宇七さんは、うちのあにさんが好きなんだと思っていました。」
「なっ…なにを言うのだ、どうしてまた?」
「あにさんのほうは宇七さんが、好きだと思います。」
「いや、福助どのは源内先生と相思相愛ではないか。」
「うーん。源内先生のほうは、あにさんに惚れこんでいますが、あにさんはそうじゃありません。」
「どういうことだい?」
「根南志具佐という、源内先生の戯作を知っていますか?」
「ああ。ふたりが出会うきっかけになった本だろう?読んだことはないが、源内先生が福助どのをからかったという…」
「からかったんじゃありません。脅したんです。」
亀次郎の意外な言葉に、宇七は釣竿を引き上げた。
「脅した?」
「ええ。ちゃんと読むとわかります。」
亀次郎が10年ほど前に江戸を騒がせた事件を知っているか、と宇七に聞く。
「荻野八重桐という人気の女形が、役者同士で出掛けた隅田川の舟遊びで水に落ちて、それきり戻らなかったのをご存知ですか?」
「ああ。当時はずいぶんと騒ぎになったらしいな。土左衛門も上がらなかったそうだ。」
「とうぜんです。死んでないんですもの。」
「へぇ?死んでない?」
「ええ。死んでません。今でもどこかに囲われているんじゃないかしら。」
「俺は根南志具佐を読んでない、あらすじを教えてくれないか。」
「ええ。」
亀次郎が根南志具佐の話を始める…市井の風俗の乱れに怒る閻魔大王だったが、地獄に落ちた衆道の坊主がきっかけで絶世の美男、瀬川菊之丞を知る。姿絵を見た閻魔大王は一目で恋に落ち、菊之丞を拉致してものにしようと、手下を使ってあの手、この手で迫る…とうとう、見かねた荻野八重桐という女形が身代わりとなって閻魔大王のもとに行く…というあらすじだ。
「もしかして、これは本当の話なのか?」
「はい。ご公儀にて風俗を取り締まられる御立場のかたが、うちのあにさんに懸想し、しかたなく荻野八重桐が代わりに身請けされたのです。遊女の身請けをした侍は改易されます。ましてや女形役者となれば…世間に知れればたいへんなことになる話でした。」
「そんな話を聞きつけて、源内先生は世間にすっぱ抜いたのか。」
「ええ。」
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