硝子の中の松笠

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「浅川くん、退勤()がって良いよ」 「いえ、自分はもう少し」  なぎは日勤、所長は当番。引き続きをした直後に、痴漢容疑の男の対応があったため、退勤が遅れてしまった。 「娘さんと旦那さんが待ってるんでしょう? もう定時は過ぎてるんだから、帰りなよ」 「……すみません。お言葉に甘えて」  退勤の準備をしていると、また所長に話しかけられた。 「浅川くん、先程のことだけど」  先程。痴漢容疑の男のことだ。 「きみの気持ちはわかるよ。わかるつもりだよ。僕も怒りたかったもの。殴れるものなら、あの男を殴りたかった」  なぎがこぶしを握りしめていたことをに、所長は気づいていた。 「我々にできることは、落とし所を見つけて理解してもらうこと。難しいけど、僕もついているから、乗り越えよう。ひとりじゃないんだから」  のんびりして見える所長だが、過去の事件を悔やんでいると、ペアを組む先輩から聞いたことがある。  数年前この管内で、“心珠”にキスをされそうになった、という人が何人もいた。年齢性別問わず行われた奇行に、小中学校は時短授業や一斉下校の処置を取り、教職員はパトロールを強化した。  この件で、警察は動けなかった。“心珠”は触れることができず、壊すこともできない。“心珠”そのものに危害を加えることは、物理的に不可能だ。“心珠”に何かすることはできず、例えば被害者の“心珠”の煌めきが薄れて淀んだり、精神を病んだとしてもとしても、それが事件によるものであると立証も不可能であるため、警察に被害届を出しても受理されない。警察も、受理するわけにはゆかない。奇行を行った本人も、それをわかって行動していた。  奇行を行っていた本人が、傷害罪で逮捕されたのは、歩道橋で“心珠”にキスされそうになったサラリーマンが、驚いて階段を転げ落ちて腕の骨を折ったことがきっかけだった。  裁判では過失傷害罪で実刑判決が出たが、骨折させたことに対しての実刑であり、“心珠”にキスしようとしていたことに対しては刑罰の対象にならなかった。  “心珠”にキスをしようとしていた動機は、自分の“心珠”に劣等感を抱いていたこと。理想の“心珠”を口に入れて自分のものにしたかった、と裁判で言っていたらしい。  奇行を行っていた犯人を逮捕したのは、所長だった。“心珠”というパーソナルスペースを侵されたと思って心に傷を負った人が何人もいる。彼らを救うことができなかったと、所長は悔いているのだ。
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