(9)貴方にだけは知っておいて頂きたい

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 非難がましく(じん)を見詰めてみたけれど華麗にスルーされて。  助けを求めて直樹に視線を転じたら、何故か小さくうなずかれて会釈(えしゃく)されてしまった。 (伊藤さん、その首肯(しゅこう)の意味を教えて下さい! 私、このまま流されてしまっても大丈夫ですか?)  実は失礼な話だが、尽よりも彼の秘書の方が誠実さは上だと思っている天莉(あまり)だ。  尽だけではなく直樹にまで、『問題ないですよ』と言った感じでに現状を受け入れるよう(うなが)されては従うしかない。  尽がいつぞや見せてくれた『パーカー社』のソネットシリーズの高級ペンを取り出して、サラサラと天莉の横で『夫になる人』の欄を埋めていくのを見詰めながら、天莉は戸惑いつつ、自分も(はら)をくくるしかないのかなと思って。  過日猫の婚姻届に(あらかじ)め書かれていた文字を見た時にも思ったけれど、尽はとても綺麗な字を書く男性だ。  筆圧は少し高め。跳ねる所はしっかりと跳ね、止める所はグッと止まる、堂々として男らしい、まさに尽自身のように威風堂々とした自信に満ち溢れた文字。  それでいて整っているからだろう。  とても読みやすいのだ。  そんな文字で一通り自身が書くべき欄を埋め終えた尽が、天莉にそのペンを差し出してきて。  手渡されるままに受け取ったペンの軸部分には、まだじんわりと尽の手の温もりが残っていた。  一度書いたことがある書類だ。  天莉は前ほど惑わずに『妻になる人』の欄を埋めることが出来た。  出来たのだけれど――。
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