(10)手のひらの上

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 照れ隠し。  気持ちを切り替えるように突然話題を変えた天莉(あまり)に、  「ああ、それはじきに直樹(なお)が――」  (じん)が眼鏡の奥の双眸(そうぼう)を含みありげに細めてそう言ったのと同時、執務室の扉がノックされた。  尽がフッと笑って「噂をすれば、だね?」とつぶやいたのに「伊藤です、戻りました」と言う声が重なって。  尽の「入れ」という許可を受けた直樹が、「失礼します」という声とともに優美な一礼をして入室してきた。 (何か初めての日とは大違いだわ……)  初見の伊藤直樹は、ここのドアをノックもなしにいきなり開けて、ズカズカと室内へ入ってきたのだ。  同一人物の所作とは思えないギャップに、天莉は尽から手を取り戻そうとそっと引いてみながら、そんなことを思う。  だが、存外ギュッと握られた手はちょっとやそっと引いたくらいでは取り戻せそうにない。 (きっと伊藤さん、オン・オフで高嶺(たかみね)常務への対応を切り替えていらっしゃるのね)  如何にも器用そうな直樹がしそうなことだ。  そう言えば高嶺(たかみね)(じん)も、伊藤直樹も、公私で(おの)れの呼称を変えている。  普段は〝俺〟と称する尽は、公の場だと〝私〟。  直樹は〝僕〟から〝わたくし〟にシフトする。  そんなことをしてこんがらがったりしないのが凄いなと思ってしまった天莉だ。  困った後輩の、『紗英ぇ~』がわざとらしく『私ぃ~』になるお粗末さとは雲泥の差。  そんなことを思っていたら、「わたくしが少し席を外している間に、常務は一体何をしていらっしゃるんですか?」と、直樹の冷ややかな声がして。  ハッと我に返った天莉は、直樹の視線が静かに、だが絶対零度の冷酷さを宿して、尽が放してくれないままの手に注がれていることに気が付いた。  常務と名指しされていたし、別に天莉が責められたわけではないと分かるのに、まるで尽と共犯者になったような気持ちがして懸命に手を引いてみた天莉だ。  けれど、やっぱりびくともしなくて。
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