(14)あの場で婚姻届を出さなかった理由

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 (じん)天莉(あまり)を抱く腕を緩めると一歩だけ引いて、所在なく胸前で戸惑う天莉の両手を、自らの両掌(りょうてのひら)でそっとすくい上げる。  そうして眼鏡越し、柔らかなまなざしでじっと天莉を見詰めてきた。  レンズを介していても、その視線が熱を帯びているように思えて、天莉はドキドキしてしまう。  触れられた指先から、尽に心臓のざわめきが届いてしまうんじゃないかと心配になって、我知らず手指に力がこもった。  尽から凝視されることが恥ずかしくて堪らないのに、何故か視線を逸らすことが出来なくて、天莉は涙に濡れた瞳のまま、じっと尽を見詰め返すので精一杯。 「天莉。ご両親の前で、キミのことを中身も含めて好きになったと言ったのは嘘じゃない。天莉以上に愛せる女性には出会えないだろうと告げた気持ちも本当だ。俺は……利害とかそう言うのを抜きにして、キミと一緒にいられたらと思ってる」 「へっ……?」  驚きの余り間の抜けた声が出てしまった天莉に、尽が握ったままの手指にほんの少しだけ力を込めてくる。  そうして、いつも自信満々の尽にしては珍しく、どこか不安そうな顔をして続けるのだ。 「――当初の約束は反故(ほご)にしてしまうことになるが……俺からのプロポーズ、もう一度だけ受け直してもらえないだろうか?」  偽装の関係ではなく、天莉と真実(まこと)の夫婦になりたいと言って、自信なさげに視線を揺らせる尽に、天莉は驚きの余り瞳を見開かずにはいられない。 「あ、あの……私……」  天莉だって、尽に惹かれていると自覚してからずっと、彼とそうなれたらいいと夢見てきた。  でも、そんなことは天地がひっくり返っても起こらないだろうと諦めてもいて……。  突然の尽からの申し出が信じられなくて、すぐには返事が出来ないまま、尽をじっと見上げて固まってしまう。 「……ダメ……か?」  余りに長いこと何も言えずにいたからだろう。  尽の頭とお尻に、へにょりと項垂(うなだ)れた犬耳とふさふさのしっぽが見えた気がしてしまった天莉だ。
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