(14)あの場で婚姻届を出さなかった理由

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 自分より六つも年上で……役職だって常務取締役とか、雲の上のように手の届かない偉い人だと思っていたのに。  高嶺(たかみね)(じん)という男は、こうして話してみると案外大型犬のように可愛い、どこか少年のようなところを持った人だと分かった。 「(たか)……じ、んこそ、崖っぷちのアラサー女性にそんなこと言って……責任重大だよ? もう逃がしてあげないんだから」  笑いながら尽の腕の中、天莉(あまり)がそう言ったら、尽がククッと喉を鳴らした。 「望むところだ」  言ってから、「やはりさっき、キミの実家で勢いに任せて婚姻届を出さなくて良かったと心底思うよ」とつぶやいた。 「え?」  突然の告白に天莉が尽を見上げたら、 「俺はね、あの時には既に心変わりしていたんだ。偽装の恋人としてではなく、ちゃんとした婚約者として……それこそ普通の恋人同士が営むように、正規の段階を踏んでキミを(めと)りたいってね。――それが婚姻届を一旦保留にして持ち帰ってきた本当の理由だよ、天莉」  言って、感極まったみたいに天莉を抱く腕にギュウッと力を込めてくる。 「じ、んっ、痛い……」  ちょっと腕の力が強すぎて、天莉がソワソワと身じろいだら、慌てたように尽が腕の力を緩めてくれて。 「すまない、つい……」  しゅんと項垂(うなだ)れる姿に、尽は冷静そうに見えて、結構直情的な所があるんだなと再認識させられた天莉だ。  さっき尽が、言葉より先に行動へ移してしまって誤解を受けやすいと言っていたのは、そう言うところにも出ている気がして。  そんな尽が、衝動的ではなくちゃんと考えて婚姻届を両親に出さなかったのだと知ったら、何だか物凄く感慨深いではないか。 「でもこれでやっと。次に天莉のご両親にお会いした時こそは、堂々と婚姻届の証人欄を埋めて欲しいとお願い出来るね。――ああ、だけど……その前にキミに指輪を贈らないと」  尽の腕に抱かれたまま、天莉は彼の言葉を夢の中にいるような心地で聞いた。
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