(4)そう言うことでしたら今夜はとりあえず

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 すぐ間近。  ソファに腰かけたままの(じん)を思いっきり見下ろすようにして、明らかな怒気を全身にまとったスーツ姿の男が、上司を睨み付けている。  普通ではあり得ない状況に、天莉(あまり)はとにかく落ち着かない。  それなのにさすがと言うべきか。 「……直樹(なお)、意外と早かったな」  尽が、いつも一緒にいる秘書の男にさらりとそう返すのを見て、その男から強引にソファの背もたれへ押し戻される形にされて固まったまま、天莉は一人息を呑んだ。  高嶺(たかみね)常務の秘書――確か伊藤(いとう)直樹(なおき)と言う名だったはず――が、ノックもなしに、急に上役(うわやく)の個室の扉を押し開けるようにして室内へ入ってきたことにも驚いたけれど、いつもは『高嶺(たかみね)常務』と(つつ)ましやかに呼び掛けているはずの尽のことを、無遠慮(ぶえんりょ)に呼び捨てにしている事にも驚かされた天莉だ。  よくよく考えてみれば、尽もそんな秘書のことを親し気に〝なお〟なんて呼んでいる。  さして接点があるわけではない雲上人のふたりなので、実際尽が普段直樹のことを何と呼んでいるのか天莉は知らない。  だが普通に考えて『伊藤』とか苗字辺りで呼び掛けているのではないだろうか。 「は? 意外と早かった? 一体全体どの口がそんなことを言うんだろうね? 『まずいことになった。悪いが戻って来てくれ』。――お前からこんなメールをもらってのんびりしていられるほど、僕は肝が据わってないんだけど?」  スマートフォンの画面を尽の方へ突き付けながら盛大な吐息を落とした直樹に、尽の背中越し。  天莉は、まるで自分が責められているような気持ちになってキュッと小さく縮こまる。 「いや、まぁそれはそうなんだが……。もう少し遅くたって俺は一向に構わなかったぞ? 大体そんなに急いで戻って来て、事故でもしたらどうするんだ」 「なぁに、尽。僕の心配をしてくれたの?」  そこでわざとらしくククッと喉を鳴らすと、直樹が声の調子をワントーン落とした。
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