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咆哮するいきものに捧ぐ
(ふとした瞬間に目覚めた感覚。
幾億もの未来が僕には見えていた。
また選んでしまった、そのことが悲しくもあり、同時にいとしくもある。過ぎるのはいつかの景色。まだ彼らが元素Oを厭う呼吸をしていたころの、話。)
退廃した街。煤けたコンクリートに、傾いだ鉄骨。アスファルトはえぐれていて土が見える。ああ、土。全身がそのいくらかの物質の集まりに途方もない懐かしさを覚えた。本来、足はこの上に立つのだと、皮膚はその柔らかさを踏んでいたのだと、記憶が揺さぶられて触れてみたくなる。
曇天が夜に雨を降らせたのだと分かる、高い塔からの雫。あの、忌むべき元素に汚染されているだろうということは容易に想像出来るのに、憎たらしい程にその水は透き通っていた。
「どうして、」
終焉を迎えた世界でたった一人残された少年が呟く。多分自分が最後の人類だとは気付いていない内の絶望。可哀相だなと、思った。予想した通りであって、それでも今初めて生まれた言葉だから、どうしようもない思いに駆られる。
歩を進める。僕が歩くことで世界が一切の音を立てないわけではないけれど、ヒトの受容可能な音の範囲からは完全に外れているし、そもそも実体もないからろくに地を踏まない。幸せだったと思う。僕がまだ、彼らの一部だったころ。
少年は肩で息をしていた。終焉を飾るに相応しい、漆黒の髪と憐れな程に白い肌、赤みを失ったくちびる。瞳の色は濁った肌色をしているが、それもあの元素に汚染されたためのもので、光を失っていたことが判る。——いや、光を失っているままであるはずだ、ふつうなら。彼は違った。違ったから、今光を取り戻して、だから先ほどの言葉が漏れたんだろう。黒々と長い睫毛の間で水が光っている。不幸、と名付けるには綺麗過ぎる。あまりにも世界の空気は澄んでいる。その中に晒される頬に語りかける。
ねえ、きめたの?
応えたはずはないけれど、少年は瞼をおろして涙を一粒落とした。
彼はあの元素に耐えうる体内構造をしていた。そう指示した細胞がいて、周囲がそれに同調した。僕はその記憶を摘み取るに留めた。この進化は意味を成さない。彼一人のうちに起こって、配偶者がいないからだ。
刹那、目覚めた感覚。前回に比べれば随分と軽くて、虚しい思いのするさいごを見た。前回はとても重くてとても濃いものだったなと、よく似た感覚に身を委ねながら思う。ヒトになっていく生物のうちの、たった一人のなかの、ある細胞が、この進化の可能性を拓いた。瞬間に目覚めた感覚がし、幾億もの未来が見えた。気の遠くなるような知の蓄積と沈澱していく欲望。歯止めの効かなくなる発展に、より意味を見失っていく争いの歴史。そして驕った彼らが導くこの元素式と終焉。それでも、それと同時に各地点で起こるだろう幾多の喜びにとてつもない甘い思いをした。
(なんて辛く甘美な生を歩んで来たんだろうね……)
僕の以前の記憶にも例を見ない。二つとない、濃密な生命活動の沿革。無意味なことを山ほどしてきたけれど、それが意味を成すから彼らの世界は素晴らしかった。あまりにも残忍なものを伴って、あまりにも、——。
だからね、人間は、地球の生み出したものとしては最悪で最高の産物なんじゃないかと僕は思う。思うんだよ、少年。
泥で汚した体躯をひらいて空に叫ぶ彼の種は、
「 咆哮するいきものに捧ぐ 」
(やがてまたその少年は現れるだろう)
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