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神に眠る物語
狭い場所に無理矢理割り込んだような窮屈な感覚がした。瞼をあげるとそこには何もなく、白いという色は見えるが空間に身を置いているようでもない。今まで地面がないとか景色がないとか、視線の届く範囲に世界の果てがある、なんてことならあったがそれでも何かはあった。ここには本当に「次元」という定義しかない。こんなのははじめてだ。呟いたつもりが、音はつくられなかった。
継立人の役割である、次元の秩序の維持。その為に、次元と次元の狭間で世界を渡る人々を監視する門番と、世界を巡り他次元の違反干渉がないかチェックする巡回者とがいる。彼はその巡回者としてここへ来たのだ。けれど空間がなければ異常も在り様がない。こんなこともあるのかと感心して、そのまま次の次元へと飛ぼうとした。
「お客人とは珍しいね」
声が、スッと耳に入ってきた。それを境に窮屈さが消え、空気が肌を包むのを感じた。
次いで「地面が在ったほうがいいかい」という声があり、体に重力がかかる。足は地につき、ここで彼ははじめて辺りを見回すという動作が出来る。声の主を探す彼の前に答えを提示するように、正面に一人の人物が現れた。
陶器の海のような色をしたその人物は、刹那全てを忘れるほど美しく、口元には無感動のようで慈悲深い笑みを湛えていた。
巡回者は自身が声を失くしたのではないかという錯覚に陥る。言葉を発してみよう、と思うことでようやく喉の使い方を思い出すのだ。
「——あなたは」
この問いは、彼を不審に感じたために出たものではなかった。継立人には、存在がこの世界のものか、それとも別の次元のものか識別できる目がある。彼は間違いなくこの世界の存在だ。だからそう——礼儀や、あたりまえの挨拶のように、出すべき話題として出てきたものだった。
そして とても緊張しないまま声をかけていいような雰囲気を感じられなかったから、いつもなら不躾な言葉遣いもする彼が「あなたは」なんて聞き方ができたのだ。
透明な瞳にほんの僅かに過去を懐かしむような色をみせた相手は、丁寧に瞼をおろして静かに答える。
「自然の摂理…、…もしくは神と呼ばれる者、かな。」
(神…)
数多の次元を渡った中で、神に出会ったのも初めての事だった。成程これが神か。この、どこから来るのかも分からない緊張感を与える存在感。世界そのものと対峙しているこの感覚は、次の世界に入り込む瞬間とよく似ている。
巡回者は無意識に呼吸を整え、もう一度『神』を見返した。自分の存在を明かす直前のあの瞳を思い出す。あれは、この次元が無であることと関わりがあることのように思えた。
「俺はスミサといいます」
「継立人だね。君たちの存在は知っている」
「ここには何故、世界がないんですか? 神様なら知ってますよね」
『神』は表情一つ変えなかった。ただすぐに返答をしないのが、彼の持つ感情の表れだろうと想像はできる。
長い間があった。やがて彼は口を開く。その声音はとても落ち着いており、穏やかで 喜びも悲しみも乗せてはいなかった。俯いたことで長い髪が前方へ流れていく。
「この次元にははじめから、何もなかった。私がいつから存在するのかも、覚えてはいない。ただ、ずっと世界がなかったわけではなくてね」
呼吸をするためかと思わせる自然さで止められた言葉は、待ってみても継がれることはなかった。「それは、もしかしてあなたが作った世界?」と質問を投げかけてみても、そう、なんていう短い返事が返ってくるのみだ。
居心地の悪さを感じながら、スミサはその世界については話さないのかと問うた。『神』は顔を上げてこちらと視線を交わすと、もう一度目を閉じた。そして常識をひとつ引っ張りだしてきたように、自分にとっては過ぎて行った時間のようなものなのだと話した。
(じゃあなんで)頭の中で何かが引っかかる。
「次は、何処に行くんだい」
「え…、…どこにでも。割と近くになると思いますよ」
「そうか。外には確立した世界があるのかな」
「……それはちょっと答えられませんけど」
困ってそう答えると、『神』は笑って「でなければ君は、ここに世界がない理由なんて聞いたりしないだろう」と言った。こればかりは規則なので、スミサは黙り込むしかない。
世界が無く、全てを知る者がこれ以上なにも語らないなら、長居するわけにはいかないだろう。そう思って感じた違和感はなかったことにした。
「それじゃあ、そろそろ行きますんで」
意味もなく右斜め上に視線を向けてみてからそう切り出すと、『神』は緩慢に頷き、徐々にその姿を消していった。
「気をつけて」という声が響き、彼はいなくなる。地面と空気と空間が一瞬のうちに消え、また体に窮屈さが戻ってくる。じゃあ行こう、と目を閉じて転移の念じをする。
自分の存在がこの次元から離れようとしたそのとき、思考の端を全ての答えが掠めたように感じたが、狭間の淀みに押されてもう戻ってこなかった。
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