第7話「去りゆく時に」(その1)

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第7話「去りゆく時に」(その1)

 私は今プノンペン空港にいる。初めてカンボジアに入ってから凡そ5年の月日が流れた。それはもう驚くほどあっという間のことだった。  目の前の駐機場には真新しいカンボジア航空の機体が待っている。ただそれはまだベトナムのホーチミン便だけで、機体も乗組員もベトナム航空の借り物らしい。それでもカンボジアは確実に進歩している。  あいかわらず空港はシンプルで照明も暗めだが、敷地の外れにあった露店が空港ターミナルビルの2階に移っていた。前と同じパラソルを真ん中に立てた丸テーブルに座り、私はアンコールビールの生を飲んでいる。  幸いよく冷えていて、少し甘めの味は変わっていない。  本当は空の下で飲みたかったが、揚げ立てのフライドポテトを口にするとそれも忘れた。これが最後だと、ビターな味に暖かなポテトの甘さを味わいながら、カンボジアで過ごした時を思い返していた。  メコン川畔のレストランバー、ガラス窓のない開放的な2階があり、麻地のカーテンが体を突き刺す陽の光を遮ってくれた。たおやかな布が風に揺れるたび、その合間から豊饒なメコンの流れが見えていた。  もし叶うなら、日がな一日、私はそこで過ごしてみたかった。  そしてシアヌークビル、いつも泊まるリゾートホテルの母屋はマレー式の天井の高い平屋で、ゴルフ場に見間違うほどの芝生広場に面していた。スタッフの静かな笑みに迎えられ、浜風がそよぐチョックインロビー、パスポートを渡しソファーで座ると、かすかに聞こえる潮騒の調べが心地よかった。  それにアンコールワット、観光地の騒々しさは橋の袂で終わり、静かに水を湛えた環濠の中程を仕切る陸橋へ上がると、参道の奥に聳える中央祠堂が迫り来る。その痛々しさには得も言われぬものがあった。  祠堂を囲む回廊の一角に残された日本の侍の墨跡には、目先のことに囚われる私も時の流れに空しさを覚えた。  ――いったい私はこの国に、何をしに来たのだろう――  無意味だと思いながらも後悔は尽きない。プノンペンへ来るたびに何度店を閉めようと思ったか。そのたびにスタッフの微笑みに言い訳を見つけて、日々発展する街に夢を描いた。  だが勢いを失った日本経済はさらに2009年に落ち込み、戦後最高の失業率を記録した。それでも私は突き進んだ。  シアヌークビルに支店を作り、敷地を借りて鉄工所を立ち上げた。日本からベテランの技術者を送り、研修生に溶接を教え日本向けに製品を出荷した。  だが韓国から仕入れた資材には輸入関税がかかり、仕上がった製品を日本へ出荷する際には輸出関税がかかった。頼りの高官に特恵関税を頼むと、賄賂と目される法外なデポジットを要求された。  国は違えども役人の性癖が変わる訳もなく、この国の交渉では常に私利私欲が先に立ち、止めどなかった。 (つづく)
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