第7話(その2)

1/1
前へ
/22ページ
次へ

第7話(その2)

 元々日本の外国人研修制度は、その国の産業を支援するために若者を招聘し、同様の分野で働いて帰国することが前提である。  だがカンボジアのどこに造船所があるのか。どこに工業地帯があるのか。すべては武力を持った部隊を軍隊と呼ばない、不思議な国の方便である。  ただそういう私も、会社創設の趣意書に 「会社は公器であり社会の発展に尽くす」  としながら、本当にそれを実践しているのか。  可愛がられた重役の急死で窓際に追い遣られた私は、会社からはじき出されるように独立した。それでもその会社に頼って、支援を受けてきた。  だが私が契約社員として担当した造船所の事業は採算が合わず、前の会社は撤退を決めた。その際、顧客の意向で私がその商権を引き継いだ。お陰で私の会社の売上は倍々で増えた。  ECサイトの組織化の要求を拒んだ私が、大手造船所との数億円に上る取引に目が眩んだ。会社設立の際、あれほど冷淡だった銀行筋も掌返しで融資をしてくれた。それを原資に人を雇い設備を入れて仕事を広げた。  だが利益のバランスは崩れていた。戦時中重火器を増やし過ぎて、完工早々に転覆した軍艦よろしく、トップヘビーのまま嵐の海に突っ込んでいた。  加えて私は確実に歳を取っていた。例え十万円でも、億の仕事と同じように金と時間を費やして顧客を訪ね、面対面で内容を詰めた。  夜はそのまま顧客をもてなし、深夜まで接待して絆を深めた。だが世情は変わり打合せはメールで済ませ、宴席を嫌う客が増えていた。 (常在戦場、現場を知らずして、良い船が設計出来るはずがない)  三つ子の魂百までではないが、私の頭の中には新卒で勤めた造船所の教育が巣食っていた。実際私が足繁く通った造船所も、頭でっかちの学卒より、優秀な高卒の叩き上げが主流であり、彼らが私の営業スタイルを好んでくれた。  だがすでに昭和の術は遠くなりつつあった。 (純真無垢なカンボジアの若者を育てるなら、まだ私の術も……)   とでも考えたのか、国内で感じる焦りをカンボジアへぶつけた。  なんとか経費を浮かそうと、日本から出張のたびに百均の雑貨をバックで運んだ。だが売上は好転せず、悪性癌の様に本体を蝕んでいった。  あれは2011年の春、私はトォアを日本へ呼んだ。  各地を連れて歩き、ホテルで研修会を開いた。その日の午後、休憩でロビーへ出ると、テレビの緊急放送で津波を映し出していた。  研修は中止、トォアを帰国させてそのまま支店長に上げた。  それ以後、彼は変わった。  ある夜、現地の接待でクメール語の分かる日本人から注意を受けた。 「山岡さん、あなたが席を外した間に彼は、ママに賄賂を……」  それを聞いても私は注意しなかった。  実はトォアを紹介した高官は、彼の実家の土地を取り上げ、彼の家族から搾取していた。俄かには信じがたく、トォアにその事実を質したが、彼はただ暗い顔で答えた。 「ボス、心配しないで下さい。私はなにも問題ありません」  この国で生きるにはそれが彼の術なのであろうと、私は思っていた。 (つづく)
/22ページ

最初のコメントを投稿しよう!

11人が本棚に入れています
本棚に追加