第1話「思わぬ来訪者」(その1)

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第1話「思わぬ来訪者」(その1)

 その日の午後、プノンペンの街は俄かにスコールとなった。陽射しに溢れる通りがあっという間に薄暗くなり、通りを走るバイクの壊れたマフラーの音でさえ消し去るような土砂降りになった。  私の店は、フランス統治時代の瀟洒な家が建ちならぶ通りにあり、木造三階建ての一階だった。近くに日本食レストランがあり、交差点の対角にコンビニがついたガソリンスタンドが一軒ずつあった。  私は店の中でフルハイトのガラス引き戸の前に立ち、通りを走る車を見るでもなく、かといって降りやまぬ雨を見ていた訳でもない。背後のレジで売り子が駄弁るクメール語を聞きながら、もっと現地の言葉を勉強しておけば良かったと、悔やんでいたのかも知れない。  2009年12月半ばだった。店の中は売り子が作ったクリスマスの飾りつけで溢れ、私の視界をそれでも美しく縁取りしている。  建物の前の猫の額ほどの庭に年季の入ったブーゲンビリアが立ちのぼり、燃えるような赤い花を風に揺らしている。売り子が好んで使う原色と相まって、それはメルヘンチックな世界ともいえた。  だが前の通りは路肩の狭い2車線しかなく、相変わらず渋滞している。走る車はほとんどが日本の中古車なのだが、中には日本人の年収を遥かに超えると思われる高価なランクルも混じっていた。  交差点の赤信号で流れが止まると、数人で相乗りしたバイクがその狭い車列の間を縫う様に走る。そうかと思えばシャイな物売りが、菓子や新聞や玩具を持てるだけ持って練り歩く。あれで売れるのかと思いながら見ていると、寡黙に果敢に売り歩いていくのだった。  排ガスに溢れる通りをバイクで走る者は、たいていマスクをして健康志向だと窺いしれる。ただその黒や黄色の布切れはどれも寸足らずなのだが、誰もそんなことを気にする様子はない。堰を切って怒涛の如く仕事に進撃する様は、懐かしくもあり羨ましくある。  クーラーの利いた店の中から、これが自分の国の発展をみんなで謳歌するということかと、いまさらのように私は納得していた。 (つづく)    
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