花を嫉みて

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「ただいまー」  安い賃貸アパートの端部屋。扉を開けた途端、線香の匂いが鼻をついた。  恐らく父親だろう。母の死から3年、未だに毎日線香を上げている。   通学カバンを玄関に放り出すと、美鈴は、靴置き場の上に置かれた母の写真に笑いかけた。 「ただいま、お母さん」  無論、写真は何も言わない。そばに飾られた花瓶のユリが、かすかに首を傾けた。    ***  歴史の授業によれば、初めてサクラ病による死者が出たのは、今から87年前のことだそうだ。  当時はまだ桜の花の危険性が知られておらず、日本人の大半は古来から続く風習の延長と飲み会を兼ね、春の桜が咲くごとに、その下で花見という行事を行っていたらしい。  しかし、その季節イベントに終止符が打たれた。サクラ病という病の大衆認知により、桜は危険であると人々が気づき始めたせいである。  今では誰でも知っているように、植物には、動物ほどではないが感覚がある。むしられれば苦痛を感じるし、やさしく話しかけられれば快を感じる。  しかし、自分たちのすぐそばで人間が浮かれて騒ぎ、大量のゴミを放置していくのは気に食わない。  また、過干渉も好まない。  つまり、古来より年に一度、人々に盛大な注目を浴びる桜の木は──あまり、人間を快く思っていないわけで。  その結果として桜は、。  体内に貯め込んだ不要物や余った養分、吸収すれば枯れる原因ともなるような余分な要素を少しずつ合成し、それを空気中に気体として放出したのだ。  透明、無色無臭、また、自然に発生した分析困難な有害毒素。のちに俗称でサクラ菌と呼ばれるようになるそれを、桜の木は時折、周囲の非常に狭い範囲に飛散させた。  最初は、幹に傷をつけたり花を千切ったりするような、悪質なイタズラ者ばかりがしていた。  だが、数十年のうちにその被害はまたたく間に拡大し、やがて人々は桜の木に近寄ることさえままならなくなった。  これは桜の木の防衛本能ともいえる現象で、我々人間が不用意に近づきすぎたせいでしょう。我々が花見をやめ、不必要な干渉を減らせば、まだましになるはずです。  専門家はそう言った。  しかし現実は非情なことに、そうはならなかった。  12年前の初春──ついに桜は、芥子(ケシ)や大麻と同じ、危険植物に認定された。    
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