味の糸 つむぐ

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花見さくらは今日も、一階に小料理屋を構える自宅の二階で、食品調味料株式会社「ドール」提供の料理番組を差し迫った状況で見ていた。 令和四年、下半期、コロナ蔓延もようやく鎮静化しつつある。 そんな中、さくらは叔母、悦子の忘れ形見とも言える小料理屋「お千代」を、何としてでも継続させていきたいという気持ちでいっぱいだった。叔母の力によって店に来てくれるようになった常連客を、ただ待っているだけではこの小岩駅周辺にごまんとある他の料理店に客を吸い取られてしまう。 よって、料理番組からアイディアを得て何か新しいメニューを打ち出していかなければという苦肉の策だった。 さくらはテレビ画面に映し出される料理研究家の手際よい調理に遅れを取ってはなるものかと必死にペンを走らせ、作成手順を書き留めた。そして、さくらは幼少期、悦子の兄であり、自らの父である健司に告げられた言葉を思い起こした。 「さくら、お前もこの春から4年生だ。で、父さん、この際本当のことを言おうと思う。お前の母さんは、お前が赤ん坊の頃病気で死んだと言っていたけれど、それは噓でね。母さんは父さんと知り合う前に恋人同士だった男とよりを戻し、家を出ていったんだ。父さんはね、母さんの自分に甘いというか我慢できない性格を知っていたから敢えて後を追う事はしなかった。お前の為にも、父親としてもっと何かするべきだったとも思うんだが、つい、楽な方を選んでしまったんだ。済まない」 そう償いの言葉を述べてくれた父は、土建業で身を粉にして働いていた最中、建築中のビルから足を滑らせ転落死を遂げた。 高2になっていたさくらは、小料理屋を営む叔母、悦子の下に引き取られ、料理の下ごしらえや店の掃除などを手伝いながら、叔母と二人、都会の片隅でひっそりと、且つ逞しく生きてきたのだった。 高校在学中、悦子から「あんたの父さんから預かっていたお金が結構たまっててね。大学の学費だって十分賄えるんだ。せっかくだから進学してみたら?」とも言われたが、さくらは自分が進学したところで、ろくに勉強もせず四年間を棒に振るだけではないか?と思い、やめた。結局、高校卒業後、一年間パソコンスクールに通いスキルを身につけた後、馬喰町にある商事会社に入社した。 さくらは会社員時代の記憶を呼び起こし、給料はお世辞にも高いとは言えなかったが、煩わしい人間関係もなくのびのびと過ごせた事を懐かしく思った。 会社勤めの傍ら、夜は悦子のやっている小料理屋に顔を出す。客の相手をするのもまんざら嫌いではなかったさくらは、このままこの充実した人生が続くものと、心のどこかで考えていた。しかし、悦子は、ある厳冬の夜、店で最後の客を送り出した直後に倒れ、急性くも膜下出血にて、運ばれた先の病院で翌朝息をひき取った。 さくらは悦子の四十九日の法要を必死の思いでやり遂げた後、小料理屋「お千代」に戻り、はたと考えた。 悦子の作る総菜はどれもレベルが高く、その料理目当てに常連客が付いていた。店の経営については、ある程度悦子から教えられていた為、引き継いだ後も問題なくこなせた。だが、こと料理となると悦子の足元にも及ばない。 その日から、さくらは悦子の残した店を存続させるべく、定番メニューを残しつつ、新しい料理の開拓に励んだ。会社勤めとの二足の草鞋も決して不可能ではなかったが、これもよい引き際と考え、辞職した。 「あっという間の6年だった。叔母さんも自分が亡くなった二年後に、こんなにも世界情勢が変わるなんて想像も出来なかっただろうな。よし、仕込みに入ろうっと」 さくらは二階の住まいから一階の店へと移動し、今しがたテレビで流れていたエビと新じゃがと筍の黄身酢和えの調理に入る。 「海老は後で調達するとして、筍とじゃがいもは買い置きがあったはず」 さくらは雪平鍋に良く洗ったじゃがいもを入れ煮始める。 「皆、野菜の下ごしらえをレンジでチンして済ましているけど、レンジを使うとね、確実に加熱されるけど風味が損なわれるの。じゃがいもは皮つきのまま茹でて、茹で上がった後、皮をむいてね」 さくらが店の手伝いをし始めた頃から、悦子は何かにつけ、料理の手ほどきをしてくれた。イカの内臓処理、魚の三枚おろし、いなり寿司用に油揚げを袋状にする方法。さくらは店が終わった後、二階でそれらをノートに書き留めておき、機会あるごとに参考にした。 じゃがいもと筍の下ごしらえを終えた後、有り合わせの物で朝食兼昼食を済ませて買い物に出る。 徒歩で15分かかる市場には、青果はもちろんのこと、肉や鮮魚も新鮮なものが手に入る事から年がら年中通い続けていた。 さくらの目に「三苫青果」の店頭に並べられた旬の野菜が飛び込んでくる。さくらは悦子からかけられた「予め、買う品は決めて買い物に出るわけだけど、店先でいい食材に出くわすこともある。そんな時は献立を変えてもいいと思うの」という言葉を思い出すも「私にはそんな器用な真似はできない」と目をそらした。 次に向かった高浜鮮魚店で海老を見定めていると、店主から 「悦ちゃんもさぞ、喜んでるだろうな。自分がいなくなってもさくらちゃんがしっかり店を守ってくれてるわけだから」 との声がかかる。さくらは 「有難うございます」 と言って、買い求めた海老を受け取ると、店までの道を戻り始めた。 店に着くとさくらは、仕入れた海老とじゃがいも、筍を和える黄身酢あんを作っていく。それが終わると、定番メニューとも言えるふろふき大根、こんにゃくの煮物、棒ダラの煮つけの調理に取り掛かる。 さくらは悦子がきっちりと調味料の分量などを明記したノートを見つつ、味付けをしていく。ノートには他にも、火加減、ポイントなどが綺麗な字で書かれており、さくらは 「ほんとにノート様様だよ」 と心の中で手を合わせる。こんにゃくの煮物は早目に作って味をしみ込ませた方が良いので、最初に調理に入る。 「あのね、料理を作っていて味が薄いとするじゃない。その時には醬油を足すんじゃなく塩で調整するの。その方が失敗しないものなのよ」 このようなワンポイントアドバイスでも、店の存続に影響を及ぼすと思えばおろそかには出来ない。 五時半の開店時間に合わせて、一通りの料理を作り終えたさくらは二階に上がり着物に着替えて割烹着を身につけた。 「よし、準備完了」と心の中で唱え、階段を下りる。暖簾を出して15分後、判で押したかのように常連客が戸を開ける。 「こんちは。秋口とは言えまだまだ暑いね。あぁ、また俺たちが一番乗りか…」 そう言って老舗の乾物屋と金物店の主人である初老の男二人がそそくさと店に入って来る。 「いらっしゃいませ。いつも御贔屓にして頂き、有難うございます」 さくらは席についた二人におしぼりと茶を出した後、敢えて「何になさいますか?」と聞く事もせず、お通しの準備に入る。客として店を訪れている以上、客をこれでもかと言うほど崇め奉っておけば間違いない。 スナックのママよろしく、席についた早々「ターさん、ビールよね?」などとは言ってはいけないのだ。客との距離も一定に保っておく事に越したことはない。 さくらはそうした事を踏まえてあさりとニンニクの芽の胡麻和えのお通しを出した後、二人の出方を見るようにしていた。 「お前、何にする?やっぱサワーか?そうだよな」 幼馴染であるという二人は乾物屋の谷川が主導権を握っているようで、今日も金物屋の店主である前田を部下のように従えていた。谷川と前田はお約束の乾杯を済ませるとすぐさまグラスの半分を飲み干し、大皿の料理に目を通す。二人はそれぞれ二品ずつ注文すると、小鉢に盛られた料理にがっつく様子もなく箸をつけていく。 「この棒鱈、うまいねぇ。生姜がいいアクセントになってる」 「お前はホントに棒鱈に目がないからな。俺はどっちかというと赤魚の煮付けの方が好きだな」 さくらは予想だにしていなかった前田の褒め言葉に一瞬、驚くも、直ぐに我に返り「恐れ入ります」と笑顔で応じた。 深海に生息しているアコウダイは、釣り上げた際、水圧の変化によって目が飛び出てしまう。近年では獲れ高も限られてきており希少価値とされているが、輸入物であれば手ごろな価格で入手出来る。 六時前後から、店のL字型カウンター席には客達が集い始め、七時には満席となる。 小上がりもあるがさくら一人では対応しきれない為、予約席としていた。叔母が急逝し店を継いだ当初は、叔母が残してくれたレシピノートにそって料理を作り提供するだけで精一杯だった。客から不意に投げかけられた冗談にも上手く対応できず、笑顔も引きつっていたと思う。生前、悦子はさくらに 「いい?客はね、食事をする為に店に来ているわけではないの。二人であるいはグループで酒を飲みたいが為に来ている。だから酒の扱いだけはぞんざいにしないでね」 と事あるごとに言っていた。 「あんたは誰に似たのか、指がすっと伸びてて爪も綺麗。こんな魅力的な手でお酒を出されたら、男なら誰でもイチコロよ」 そう言われて余計、手のケアに気を使うようになったのだから何気ない会話も決してなおざりには出来ない。 日付が変わって、最後の客が店を出た後、さくらはようやく暖簾を仕舞い、店のあと片付けに入った。小一時間程で見切りをつけると施錠の確認をして二階の住まいへ上がる。 悦子と二人の時には分担を決め、電光石火のごとく物事を行っていたのだが、今は一人になり、仕方なく風呂を沸かしにかかる。 そして沸くまでの間、一人紅茶の時間を楽しんだ。 棚に入っている紅茶缶を取り出し、アッサムの茶葉をティーポットに入れる。湯を注いで一分ほど待ち、砂糖とミルクを入れた後もそれらがティーに浸透するのを待つ。紅茶のお供として干しあんずを数個皿に出す。ようやくカップに口を付けると、アッサムの芳香が漂い、イギリスのロイヤルファミリーの一員にでもなったような気分になる。あんずの酸っぱさとミルクの甘みが合い、今日一日の疲れを無きものにしてくれる。 生前、悦子は店が終わった後、さくらの為、よく、夜食を作ってくれた。真夜中という事もあり、悦子の料理はシルバーサラダやみそ田楽など、何れも胃にもたれないような物が多かった。さくらより悦子の方が疲労を感じているはずなのに、悦子はそんな素振りを見せず料理を取り分け、茶を淹れてくれた。 叔母さんは私の面倒を見つつ、店の経営にも心血を降り注いでいた。さくらは、だからこそ私にはこの「お千代」を守り抜いていく使命がある、と自らに言い聞かせ風呂に向かった。 翌朝9時起床。一人きりで取る朝食にもすっかり慣れた。小料理屋という職業柄、和食とは縁が切れない。そうした経緯から朝は洋風で行こうと思い、フルーツを添えたグラノラやベーコンエッグなどが定番メニューとなっていた。 朝っぱらから物騒な事件や血生臭い出来事を耳から入れたくないという事もあり、テレビをミュート機能にして見る。 よって部屋にはさくら自身がゆっくりとグラノラを嚙み砕く音だけが鳴り響いていた。 朝食を終えた後は、店が休みの日曜日に考案しておいた一週間の献立表に目を通す。直前の変更はあるものの、ある程度のガイドラインは必要だ。献立表を見ると今日のメニューは豚の角煮、中華風肉団子、イカの姿焼きとなっていた。 午後の買い物で買う食材をメモに書き留め、平日、ボランティアで参加している地域の子供食堂の手伝いに出かける。 小岩駅近くのバス停からバスに乗り10分ほどで目指す子供食堂に着く。 「おはようございます」 「おはよう花見さん。今日メンバ一の1人からね、体調不良とかでドタキャンが入っちゃったの。申し訳ないんだけどその分、 フル回転でお願いします」 南小岩子ども食堂発起人の澤が、片手に総菜の入ったボゥルを持った状態で言う。さくらも上着を脱ぎながら「わかりました」と答え、ハンドソープで手を洗う。 今日、食堂で出される予定の総菜は三品で、すでに先に入っていた者達によって作られていた。 廃業した弁当屋の後を借りての営業ではあるが調理器具が大方揃っており、使い勝手もすこぶる良かった。惣菜づくりも皆、家族の食事を任されてきたアラフォー世代なので、作業は比較的スムーズに移行する。 メンバー達は午後1時にいったん解散し、五時半からの営業に合わせて再度集まる。 しかしこの時には集まった子供達に食事を出すだけなので、三人もいれば十分なのだった。 さくらはそろそろ引き上げようと思い、借りたエプロンを外していると、発起人の澤から「ちょっといい?」と呼び止められる。 「クリスマスの特別のメニューをね、そろそろ打ち出していかないといけないの。私の考えでは地元の精肉店でチキンを安く仕入れる事が出来れば、後は、何とかなるかな?と思って。ケーキはケーキ教室を開いている久保さんが生徒総動員で作って持って来てくれるから取り敢えずクリアできたんだけど」 これは、何とかしてチキンを入手してくれ、との要望なのだなと察したさくらは 「わかりました。知り合いとか当たってみて手応えがあり次第連絡します」と答える。 「有難う。万が一、チキンが余っちゃっても子供達にお持たせすればいいし。不足が何より心配だから」 「チーフ、一人で一切合切、抱え込まないで下さい。皆、同じ目的で集まっている同志なんですから」 この言葉で澤は、一瞬、感極まったかのようになったが、口を真一文字に結び、気丈な所を見せた。 店に戻り、さくらは、昼時という事も無視して、店内及び二階の住まいの掃除に取り掛かる。 叔母の悦子は30代半ばで店を居抜きで買い取り、女将として働き始めたが、それまでは女優として劇団に所属していた。 当然それだけでは食べてはいけず、親からの援助もままならない状況だった為、クラブに勤め夜の女として生計を立てていた。 夜間、三時間の勤務で信じられない程の給料をもらえる仕事はそれなりにプレッシャーもかかったようだったが、同僚ホステスの中に何でも相談出来る友達を見つけたらしく、彼女と助け合うようにして、数年間、籍を置くことができたのだと聞く。 そうした事もあってか、悦子の小料理屋での客あしらいは天下一品とも言え、ホステス時代に客からプレゼントとして贈られたブランド品が数多く残されていた。 「安物はだめ。一年もすれば糸がほつれてきたりして着れなくなる。数万円は痛いけど結局いいものを買って、大切に保管しつつ長い間使っていくに越したことはないんだよ」 さくらは掃除機をかけながら、悦子の言葉を反芻した。 掃除後、今夜店で出す料理の作製に入る。 昼食兼夕食を取る三時に合わせ、市場で調達してきた食材で調理していく。 イカの姿焼きは内臓を取り除き開店時間に合わせて焼き上がるようにし、肉団子の調理を行う。合いびき肉に酒、醬油、砂糖、すりおろし生姜、パン粉を混ぜて練る。 現代にはラテックスグローブという便利なものがあるおかげで、肉をこねても手は汚れない。肉団子に絡めるあんは、紹興酒、醬油、黒砂糖、みりん等で作る。出来上がった甘酢あんを小皿に取り、味見してみると黒砂糖特有のコクが出ていて問題はなかった。 やがて昼食の時間となるが、着物を着る為、どうしても満腹状態ではマズい。よって、クラッカーにカマンベールチーズ、カロリーメイトにコーヒーという世にもまれな粗食となる。 食後は用事がない限り外出せず、ネットニュースを見たりして時間を潰す。店を開けてからは全て一人でやり、終わってからも後片付けや入浴などで息つく暇もない。 その為、一日の内でぽっかりと空いたこの二時間は、敢えて何もせずに過ごす事が多かった。 暖簾を出し30分程でカウンター席がほぼ埋まる。 サラリーマンにとって、木曜日という日は「あと、1日頑張れば美味い酒が飲める」という一種の免罪符のような日で、且つ、金曜はなんやかんやで予定が入るから今日こそ気の置けない仲間と飲もう!という日でもある。 令和二年に蔓延し始めたコロナ感染症により、店の営業は停止を余儀なくされる事もあった。 しかし、しっかり者の悦子の蓄えとさくらの父である健司の遺産を充てる事で何とか乗り切れた。 席を仕切るアクリル板も内装業を営む客に、一時間余りで取り付けてもらった。 この仕事に就く以前から恐怖の地獄耳と名高かったさくらは、営業中、例え客に背を向けていても誰と誰が会話しているか判別がつき、内容までも把握できた。 今日、店に訪れている、どちらもペット関連の仕事をしている三上と吉田はやや声を潜めて話し込んでいるが、先週に引き続きテーマはペットショップの譲渡についてのようだ。 角煮と板わさで熱燗をやるという酒飲みならではのやり方を実践する二人は、ほぼ結論は出ているものの後腐れのないよう、時間をかけて決定打を下したいようだった。 「高齢化とコロナの影響か、ウチみたいな小売店は商品を本当に売りさばけなくなってね。同業者で店、構えてる連中に聞いても何とか売りたたいて店を明け渡すって言ってる。俺も決めたよ。先日提示した金額で残っている子達を引き取ってほしい」 「わかった。悪いようにはしないから安心してくれ」 さくらは三上の悪いようにはしないという文言に、まるで時代劇に出てくる悪代官のようだなと心の中で毒づく。 六時前後に入店した客が二時間ほどで引き上げていくと、入れ替わりでラストまで居座る客が入って来る。 月に二度ほどしか顔を見せないが、その度に新規の客を連れてきてくれる石黒はセレモニー会社の取締役だ。仕事柄、生花、酒飲料、会場設備、清掃関連と取引先はとにかく多いようで、飲んでる最中にも携帯が鳴り続けていた。 「女将、ウィスキー山崎、ロックで。うん、グラスは2つだ。それと何か三品おまかせで頼む」 さくらは「はい、只今」と言い、取り敢えずクルミと小女子の佃煮、からすみを出して焼き蛤に手を付ける。無類の酒飲みである石黒は肴を口にしつつも数分でグラスを空けおかわりをリクエストした。 医師会付属の看護師専門学校の事務局長を務める及川は、先輩に連れられて飲みに来た経緯で「お千代」を知った口だがしんみりとした雰囲気の喫茶店よりも、こうした気取らない雰囲気の店の方が込み入った話をするには適していると考えていた。 今日はかつての同僚で現在は総合病院の師長をやっている牧原を呼んだものの、中々本題に入る事が出来ず、時間だけが無駄に経過していた。 しびれを切らした牧原はレモンサワーのおかわりを注文して、目の前に置かれたイカの姿焼きに添えられたマヨネーズを付け始める。 「悪いね。昔のよしみとは言え、今は大病院の師長の座に付いているりっちゃんを飲みに連れだしたりして」 「何、水臭い事言ってるのよ。今日ここに呼ばれた理由も大体予想はついてるし。お宅の付属看護専門学校の生徒さんの大量自主退学の件でしょ?大変だったね」 「正直、面食らったよ。インストラクターのモラハラがあったみたいでね。辞めるのが大勢出たって事は、モラハラの事実はあるにはあったんだろう」 「世代の違いというのもあるんでしょうけど、インストラクターだってキツイ言葉で言わなきゃ伝わらないだろうという思いもある。親が家で教えるべき事を学校で言わせられる身にもなってみてよ、みたいな」 「まぁね」 「インストラクター達の話もよく聞いた上で、ウチとしては生徒に辞められると本当に困るって事を切々と訴えるしかないんじゃない?」 自分の事務局長としての能力が足りないばっかりにこういう結果を招いたのだと痛感している及川は、牧原の助言に「うん、うん」と頷くだけで精一杯のようだった。 「あら、このイカ焼き美味しい!ほら、海の家なんかで出されるのはやたら味が濃かったりするじゃない?ここのはイカ本来の旨みが存分に口の中に広がる感じ」 そう言われ、及川は躊躇する事もなくイカに手を伸ばす。「うん、うまい」さくらは二人の様子を視野の片隅に入れながら、この2人以前付き合ってたんじゃないかしら?と推測する。 相手の食べかけの物に断りなく箸を付ける行為はそれなりの過程を経てきた者だけに許されていると思うからだ。 だが間違っても焼け木杭には火はつかないだろう。及川は自分の弱さを見せられるかつての恋人を呼び、ただ、話を聞いてもらいたかっただけなのだから。 「じゃ、近いうちにまた寄らせてもらうよ」 最後の客が帰った後、さくらは暖簾を仕舞い施錠する。カウンター台に載せられた大皿に目をやると、ほとんどの皿が綺麗になっており、安堵すると共に緊張の糸がほどけていく。 いつものように大急ぎで片付けをやり、二階に上がる。風呂のスイッチボタンを押し、沸く間、紅茶を淹れて飲む。 部屋中にオレンジペコの香りが広がり、そろそろ茶葉も開いた頃だなと思い、カップにティーを注ぎ砂糖と輪切りのレモンを投入する。柑橘類の香りをかぐと、落ち着くというよりは寧ろ「いっちょ、やったるか!」という気になる。だから皆、朝にオレンジジュースを飲むのかな?とした考えが浮かぶも、さっさと入浴しなければと思い、浴室に向かう。 土曜、八時に起床し、子供食堂発起人の澤に頼まれていたクリスマスメニューのチキンの調達に着手する。頭をシャキッとさせるには糖分だなと考え、頂き物の羊羹を切って、濃い目の煎茶と共に食べる。 「あんこ」がどんな経緯で世に出て来たのかはわからないが、この深みのある甘さを享受できる日本人に生まれて、本当に良かったとつくづく思った。 身支度を整えて店で出す料理の食材を購入している市場へと向かう。馴染みの精肉店の主人に澤から頼まれた内容を話すと 「それなら都内の肉屋に絞らず、地方のブロイラーにも打診してみたら?冷凍で届くから保管しておける冷凍庫が必要になるけど」 との、助言をもらう。 「なるほど。早速、家帰ってネットで調べてみます」 さくらはついでに今夜の店のメニューのヤンニョムチキン用の肉を買う。次に行った店で魚フライ用の白身魚を買い、一旦家に戻る。店の準備に入るにはまだ少し余裕があったので地方のブロイラーを片っ端から調べていく。何社かホームページでお問い合わせを受け付けている会社があったので用件を記入して送信した。送信後は昼食を取り、店の準備に入る。 誰もが一度は口にしている某有名フライドチキンチェーン店から、人気メニューのフライドフィッシュがなぜ忽然とその姿を消したのかは未だに謎だが、皆、あの味に復活して欲しいと願っているのは間違いない。 母が蒸発し男手一つでさくらを育ててくれた父は、どちらかと言えばハンバーガーよりフライドチキン派だった。 小学生の頃、仕事帰りの父がボックスに入ったチキンセットをテーブルに置き 「俺は先にひとっ風呂浴びてから食うから、お前、先に食ってていいぞ」 と言ってくれたのを思い出す。当時さくらは、独特のフライドチキンの匂いに誘発され、父を待つこともせずに食らいついたものだった。 フライドフィッシュは英国で定番の料理とされ、少量のベーキングパウダーを入れた小麦粉をビールで溶いた衣をつけて揚げるのが特徴である。 フライドフィッシュの後は、ヤンニョムチキンを作る。これは鶏むね肉をカットし、醬油、みりん、おろし大蒜で下味をつけた物に軽く小麦粉をはたいて揚げる。 その後、コチュジャン、醬油、砂糖、酢で作ったタレを絡めて完成だ。 仕事が一段落し、店を開ける。 七時を回った頃、父親が小岩駅周辺の土地所有者であるという「ザ成金」の呉とその取り巻き連中が入って来る。さくらは席についた三人に「ようこそ。お待ちしてました」と社交辞令の挨拶をし、おしぼりと菜の花の辛し和えのお通しを出した。 「二人はね、サントリーオールドの水割り。一人は中生」 「かしこまりました」 「あと、モツの煮込みと山かけ頂戴」 「皆さん、同じ物で宜しいでしょうか?」 「うん」 呉は両サイドの二人の意見も聞かずに、さっさと決めていくが両者共に異存はないようだ。数分後、器に入れた煮込みを出すと三人はふぅふぅと息を吹きかけながらモツを口に運ぶ。 「あぁ、うめぇ。五臓六腑に染み渡るな」 呉の右隣の男がそう述べると、もう一人も 「これに白いご飯がまた、合うのよ」 と言い、ずるずると汁をすすった。続いて出した山かけは、酒の肴として取ったようで三人ともぺろりと平らげる事はせず、器には依然として赤身のマグロに雪のような山芋がかかったままだった。 「で、相談ていうのは何なんだ?」 呉はよくぞ聞いてくれたとばかりに身を乗り出し 「家の持ちビルで、一階にすき家が入っている所あるだろう?そこの4階にやっとテナントが入りそうだって、親父が嬉々として言っててさ。そこまではいい話だったんだけど、借り手というのが胡散臭い宗教団体のようなんだ。契約前に何か手を打たないと大変な事になると思ってね」 「うん、それはマズいな」 「俺は正直に理由を言った上で断った方がいいと思うよ。きっと余所でも断られてきている連中だろうから」 「そうだな。正攻法で行くのが一番かもしれないな。まずは、親父を説き伏せる所からやっていかないと」 事態は瞬く間に好転したと見え、グラスに口をつけるピッチも早くなる。さくらはそろそろお替りの声がかかるか?と気に留めながらも、カウンターの中で料理を取り分けた。 今夜はさくらの女の勘が一段と冴え、視野の中に辛うじて入る一組のカップルにその焦点は絞られた。 「ねぇ、これから私達どうなるの?」 「そんな事わからないよ」 「以前、奥さんに知られたら離婚切り出してくれるって言ってたよね」 「…」 「やっぱり、私の事なんかもうどうでもいいと思ってるんだ」 「取り敢えずさ、冷却期間を置こう。お互い、ありきたりの日常生活を続けていく内に取り巻く状況だって変わってくるだろうし」 男の苦しい弁明に女はもう耐えられないという表情を浮かべ、瞼からは大粒の涙が溢れ出す。 他の客達はそうした訳ありの二人に気づくわけでもなく、アルコールが全身を駆け巡っているせいか、たいして面白くもない仲間内の冗談に笑い転げている。もしここが厳かにクラシックが流れる喫茶店ならば、客や従業員らの無遠慮な視線が二人に注がれるだろう。 このあと、2人はタクシーを飛ばしてラブホに消え、また底なし沼のような関係に舞い戻ってしまうのか、さくらには見当もつかなかったが、現在フリーという事もあり 「あほらしくってやってらんないよっつーの」 と心の中で二人を撃墜した。 ほどなく営業も終わり、あと片付けをしてから二階に上がる。流石に土曜日ともなれば、一週間分のストレスがさくらの心に重くのしかかってくる。 さくらは、テレビの情報番組で、この二進も三進もいかない状況を打破するには身体を動かす事が一番であると知った。そして入浴後、明日向かう先で必要となる物を準備し床に就いた。 翌朝10時、さくらは葛飾区管轄の合気道サークルで稽古に精を出していた。 老若男女が広い武道場に集まり、師範の模範演技を見てから、ペアを組んでいる者と再現を試みる。 この場合、ペアを組む者はある程度の経験を積んでいる者と初心者との組み合わせの方がいい。 合気道は、開祖植芝盛平が生み出しそこから枝分かれして、今現在、幾つかの流派が存在する精神性の高い武道である。 空手にも「形」という種目があるが、合気道もこれに似て相手を攻撃して倒すと言う武道ではない。よって両者の間で交わされる動きは荒々しくなく、流れるように美しい。 今日は正面打ち二教の表と裏、肩取り二教の表と裏の稽古で、師範が、前方の一段高い所で見本となる技をやって見せる。正面打ち二教は右半身で構え、相手が正面打ちで打ってきた時に右手手刀で応対し、左手で相手の肘を制する。その後相手の手首と肘を切り下ろすようにして受けをくずす。ここから前に進みつつ、右手手刀で相手の手首を持ち替える。続いて更に前進し重心を下ろしながら相手をうつぶせにして抑え、小手と肘を制しつつ、左膝をつく。 かつてこの葛飾支部で入部したてのさくらに手取り足取り、練習相手となって教えてくれた男がいた。 「合気道有段者でかなりやっている人はね、技そのものがとにかく軽いんだよね。言うなれば対人間じゃなく、風を相手にしているような感じかな」 彼には郷里に許嫁がいたのだが遠距離恋愛が災いし、彼女からの連絡が途絶える。よって彼はクリスマスシーズンを迎えても、彼女にコンタクトを取ることはせず、稽古後さくらを誘い、パブでやけ酒を飲んでいた。 結局さくらは、閉店時間まで痛飲し、へべれけになった男を介抱しなければならず、彼のマンションまで行き、部屋まで運び入れた所で帰ろうとしたのだが、玄関先で彼の手がすっと伸びてきてさくらを羽交い絞めにし、さくらはその場に踏みとどまる形となる。 さくらは彼の 「帰らないでくれ、寂しくて死にそうなんだ」 という訴えに「もうどうにでもなれ」という気持ちになり部屋に上がる。 合気道は稽古時、相対する者と互いの身体を密接に近づける為、男のアフターシェーブローションの香り、洗い立ての胴着から漂う柔軟剤の残り香、微かな体臭などは疾うに認識しているつもりだった。 それでもセックスとなると勝手が違い、さくらは相手が、今まで自分が何度も挑みかかっていった男とは別の人物であるような気がしてならなかった。 とは言えベッドになだれ込み、酒臭い息を耳元に吹きかけられても、 不思議と嫌悪感のようなものは湧いてこなかった。 それからも彼とは何度となく、体の関係を重ねた。どちらにしろそこには「愛」はなく、彼は寂しさの延長線上において、さくらを求めているだけだった。さくらの方にしてもピロートークで 「彼女の事、許してやったら?これを不問に付してあげれば、この先二人の間に何が起ころうとも乗り越えられそうじゃない?」 と言ったりもした。結局、彼は郷里に帰っていったが、後日「許嫁とは結婚しなかった」との連絡がきた。さくらはその時、恋人との関係はどちらも同じ熱量でなければ、何れ破綻してしまうものなのだと知った。 そして、ダメ元でもいいから、彼の胸に飛び込んでみるべきだったと後悔し、改めて、逃がした魚の大きさを思い知らされたのだった。 稽古が終わり、更衣室で来た時の服に着替える。 「やっと昇段審査の予定組まれたみたいだけど、あなた受けないの?」 区役所勤めの酒井が柔和な笑顔をさくらに向け、言う。酒井はさくらに、気さくに声を掛けてくれる存在で、さくらとしては合気道のみならず、人間性においても手本としたい人物だった。 「うーん。どうしようかな?練習も休みがちだったし。どうせ受けるのなら万全の準備をして挑みたいですからね。あとは最初に申し込んでおいて自分を追い込むという手もありますけどね」 「受けるとしたら三段ね。二段と三段の間のハードルは高いからなぁ」 「酒井さん、受ける前から意気消沈するような事言わないでください」 「ハハハ、ごめん、ごめん」 道場の入っている体育館を出て、最寄りのバス停を目指し歩いていると、途中、広い公園に差し掛かる。日曜の昼下がりとあってファミリーで来ている人々の比率が高い。 その中でゴールデンレトリーバーを連れた50がらみの夫婦が目に入り、さくらはわざと歩調を遅くしてそれとなく観察する。 二人共革ジャンにジーンズというラフな格好だが、革ジャンは夫が黒、妻がブラウンと違いをつけている。あれだけの大型犬を飼っているという事は持ち家なのだろうか? 幸せそうな夫婦の様子につい引き込まれるようにして見てしまったさくらだったが、不審に思われない程度に見続ける。 思えばさくらはやや複雑な家庭で育ったという事もあり、結婚に対しての漠然とした憧れは最初からなかった。親しい人々臨席の上で挙式し、神の前で永遠の愛を誓っても50年どころか、3年も持たなかった話は多々ある。さくらは 「言うなれば一種の賭けだよね」 とした考えを抱くも信号が点滅しているのに気づき、横断歩道を駆け抜けた。 10月に入っても日中の気温は、さほど下がる事もなく昼時にはジャケットも必要ない位の陽気に道行く人の表情は心なしウキウキしているように映る。 開店時刻となりさくらは暖簾を出して、やっとコロナ禍に陰りが差し、元通りの生活へと戻る兆しが見えてきたなと実感した。 店を開けて10分程で「毎度っ」とイキのいい挨拶をして入ってきたのは「お千代」で出す酒を仕入れている中井酒店の二代目悟志だった。 悟志はさくらの高校の同級生で何を言い合っても後腐れのない関係だった。悟志の後から妻の由美子も顔を出し、二人はカウンター奥の席へ進む。 「あらー今日は由美ちゃんも一緒で。本当に二人いつも仲良くてうらやましい」 「やめてくださいよ。うちの人が高校時代、さくらさんに三回告白して全滅だったって話はこの界隈じゃ誰もが知ってる事なんだから」 当の本人は怒るどころか、ニコニコと照れくさそうな表情をしている。 「悟志はさ、小、中、高と一緒だったじゃない?四六時中おちゃらけてる子だったから、告白も、かつがれているんじゃないか?と思ったの」 「いや、俺、一回目の告白してダメだった時本当に落ち込んでさ。店の酒くすねて飲んでやろうと思って、一階に下りてったらそういう時に限ってお袋が帳簿つけてたりするんだよ。あの時は超やりきれなかったな」 「お母さん、グッジョブ」 「うるせぇ」 さくらはまるで息の合った漫才コンビのようだと思い、お通しを出しつつ 「何にします?」と聞く。 「そうねぇ、全部美味しそうだからフルでお願いしたい所だけど、だんなの腹も際どい線まで来てるので筑前煮とレバーの煮物、それとサザエのつぼ焼きをお願いします」 「はい、わかりました。お酒は悟志が二階堂で由美ちゃんがオールドの水割りで良かったかしら?」 「はい」 さくらはオーダーを受けた三品を用意し、それぞれの酒を二人の前に出す。悟志と由美は双方とも駆けつけ三杯のような下品な飲み方はせず、舌先を酒につけ、確認するかのようにして飲む。彼らにとって酒は単なる酔うための道具ではなく、生活をしていく上での大切な商品であるからだ。 「なんだよ。そんな穴の開くような目で見ないでよ。困ってるんだよな。母親がこんな二枚目に産んでくれたおかげで世の女達の視線を一手に引き受ける事になって」 「由美ちゃん、この小岩のドンファンに何か言ってやって」 「ほらっ、憧れの人の前で醜態さらしてんじゃないよ。シャキッとして頂戴」 悟志は由美に構われているのがうれしいようで満更でもないような顔をしている。二人は小一時間程で引き上げていったが、帰り際 「そうそう、今日はこの連絡で来たんだった。あぶねぇ、忘れる所だった」 と言い、プリントを一枚置いていった。さくらはその場で目を通すわけにもいかず「有難うございました」と言い二人を見送った。 週の真ん中の水曜、さくらは以前、葛飾区医師会の総事務局長、及川に伴われて店に来た牧原が後輩らしき若い女性を連れて入ってきたのを確認した。 さくらは「いらっしゃいませ。こちらどうぞ」と、旧知の間柄であるかの様に二人を誘導する。 「じゃぁ、あなたこちらに座って。お酒は何にする?」 「私、そんなに強くなくて。お任せします」 「あら、そうなの?じゃぁ、鏡月を二つ」 さくらは他の客のオーダーを用意しながら、牧原と女性の前に酒を出す。 「それと肉豆腐とかつおのたたきを下さい」 さくらは牧原のベテラン師長らしい、一切迷いが見られない采配に脱帽した。 「それで、相談って言うのは?」 牧原は自分からボールを投げなければ、閉店までの限られた時間を無駄にしてしまうと考えたのか、隣の、何か思いつめた様な表情の女に問いかけた。 「はい」 「あっ、まずはお酒で唇を潤しましょう」 二人はグラスを持ち、軽くぶつけると互いに品よく口をつけた。 「私、勤務先の病院にお付き合いしているドクターがいるんですが、彼にはフィアンセがいるようなんです。俗に言う二股です。普通なら、相手に強く詰め寄るんでしょうけど。結果が怖くて…どうしたらいいのか」 「それはひどいわね」 牧原は敢えて感情を抑えるかのようにして言い、グラスに入った鏡月をあおった。 「学生時代、研修で大変お世話になった牧原さんにこうした下世話な話をするのは控えた方がいいと思ったんですが他に頼れる方がいなくて」 「そんな事気にしなくていいの。同僚に口を滑らしたら最後、一時間もしない内に皆に知れ渡ってしまうだろうし」 「…」 「畑野さん、鏡月、どう?こうした口当たりのいいお酒から入って少しは飲めるようにしておいた方がいいと思うわよ。これから先の長い人生の為にも」 「有難うございます。とても飲みやすい。緊張感もほどけていくような気がします」 「ドクターってね。インターンを終えるまでの間はひよっこもいい所でね。経験を積んだナースの方が患者あしらいも上手だし注射だってミスしないから、彼らからしてみたらナース様々なのよ。だから、ここぞという時には中々行けないようなお店に連れてってご馳走してくれたり。大病院の院長クラスの先生方だって、みんなそうだったんだから。そういうドクターサイドからのナースに対する感謝の気持ちはいいと思う。でも手をつけるのはねぇ。医者のステータスで女を引き寄せて、飽きたらポイッでしょう?女なら職場以外で見つけなさいって言いたいわね」 畑野は自分の事を言われていると思ったようで視線を下に落としている。 「中にはね、堕胎させられた例もあるのよ。そうしたケースでは親が『この度は息子が不始末をしでかしまして…』って、慰謝料持って謝りに来るんだけど、彼女は心身共にボロボロになって立ち直るまで一年位かかったわね」 女という生き物は不思議なもので、自分よりも不幸なケースを耳にした途端、俄然やる気が湧いてくる。 畑野は顔を上げ、目の前に置かれた肉豆腐に箸を付けると一気にかきこんで見せ、さくらの度肝を抜いた。 二人は一時間後に店を後にし、さくらとしても「もう、あのナースは大丈夫だろう。入ってきた時と表情がまるで違う」と胸を撫で下ろし、鏡月がことの外、いい仕事をしてくれたおかげだなと、ボトルのみならず、ネーミングも美しい酒に感謝した。 閉店となり、店を閉めて二階に上がり時間に余裕がなかった為直ぐに風呂の準備をする。 さくらは店で出した料理の匂い、客達が外から持ち込む個別の匂いなどから、いち早く解放されたい事もあり、香りの強い入浴剤を使うのが常となっていた。 よって、今日も、マグノリアの香り漂う浴槽に身を沈め、先程の牧原とナースとの会話を思い返してみる。 さくらにも医師ではないが鍼灸院の院長と男女の仲になった事がある。当時さくらは上腕部から肩にかけての拘縮に悩まされていて、知人の紹介で市川の鍼灸院に出向き、そこで院長をしていた彼と出会った。 中肉中背の彼は、男を誇示しているタイプではなく、カジュアルな格好をさせれば学生とも見間違えるほど若く見えた。 簡単な問診、触診が済み寝台に寝かせられると施術が始まった。 この人のどこにそんな力があるのか?という強い力で腕全体をもみほぐされると同時に体の芯に火がつけられたようになり、やがてそれはみだらな想像のループへと変化していった。 二週間後、さくらはさらの下着をつけ、立花鍼灸院のラストの時間に合わせて受診する。 「花見さん、中へお入りください」 と助手に言われ奥の部屋へ入ると、立花はカルテにさっと目を通し 「どうですか?その後肩の痛みは」 と聞く。 「お陰様で大分良くなりました」 「では、今日も揉みほぐしていきましょう」 壁の方を向いて寝台に横になると、立花のスーッという息を吸い込む音が聞こえ、それだけでエロチックな気分になる。 半身の姿勢が崩れない様、立花はさくらの腰にクッションをあてがいぐっと押す。 立花は右肩に置いた両手を愛撫するようにゆっくりと上下させ、次に五指を使い一つ一つのツボを入念に探り当て圧を加える。 施術中、温泉にでも浸かっているような心地よさに包まれたさくらは時折「うっ」と声を漏らしてしまう。 立花は手を止め「強すぎますか?」と聞くがさくらが「ごめんなさい、あんまりにも気持ちが良くて」と言うとそのまま無言で施術を続けた。 夢のような時間は瞬く間に過ぎ「終わりましたよ」の声と共に肩に手が置かれる。 さくらは立花がこちらに背を向けたのを見計らって背後からピタッと張り付くようにしがみつく。「何してるんですか?」と言われたら即座に謝り、脱兎の如く逃げ帰ろうという計算だった。 しかし立花はほんの10秒されるがままになり、その後ぽつりと「僕の部屋に来ますか?」と聞いてきた。その後の記憶は定かではなく、覚えているのはマンションに着きエレベーターの中でキスをした事、部屋に入ると想像以上に殺風景な室内に驚く間もなくベッドに押し倒され、下半身だけ顕わにされ行為に及んだ事の二点だ。 部屋の中は薄暗く、さらの下着など何の意味も持たなかったが、するするとパンティが腰から足首まで下ろされると、さくらは初めて立花を目にした時からこの時を待っていたかのような錯覚に襲われる。立花の中指が既に潤っているさくらの中心をとらえ、細かい動きで刺激を加えていくと、さくらは「あぁ…」と切ない声を上げ反応した。 立花はいつの間にか避妊具を装着しており、ツルっとした感触の陰茎がさくら自身へと挿入される。 リズミカルな動きがしばらく続き「うっ」という声と共に立花が果てると、さくらはたまらなく愛おしくなり脱力した男の肩をしっかりと抱いた。 それからもさくらはいそいそと立花の下へ通い、施術後に彼の部屋で関係を持った。だが身体だけの結びつきは、所詮長続きせず三ヶ月程で終焉を迎えた。 さくらは浴槽から出ると、どっちにしろ、のめりこまなくて良かったのだと、今更ながらに思った。 週休二日制が定着し、金曜の夜こそ仲間と羽目をはずしとことん飲める日となった。 さくらは日中、店で出す予定のサモサを作るも想像以上に香辛料の匂いが充満し 「マズい、インドカレー店みたいになっちゃった」と後悔する。 店先に出ると10月下旬という事もあってか、外は暗く依然として道行く人のほとんどがマスクをつけている。 「大人はいいけど、子どもにとっては違和感が半端ないだろうに、可哀想」 六時を回るとカウンター席はほぼ埋まり、その隅に駅裏に位置するサンライズ商店街組合の会長、鳥越が同年代の男と飲んでいる姿が目に留まる。 さくらはしばらく店に顔を見せなかった鳥越がひと回り瘦せたように映り、病気でもしていたのではないかと推測する。鳥越は一杯目の盃を勢い良く空け、隣の男に 「いや、参ったよ。まさか女房が男作って出ていくなんてさ。俺が女作るのならまだしもその逆なんて有り得ないと思っていたからね。幸い息子達が『父さん、元気出してよ』って色々気を使ってくれたおかげで何とか日常を取り戻しつつある」 と、吐露する。 「でもさぁ、お前が俺達と同級生だった高橋の妹を射止めた時は、皆、陰であいつ上手い事やりやがってって言ってたのにわからないもんだよな」 「女房、社交ダンスを習いに行っててさ。そこで知り合った男とねんごろになったらしい。いっしょに習ってた女房の友達が報告してくれた事によると年齢はいってるものの所謂ちょい悪系の男だったらしいよ。そいつが独身だったのも女房にとっては運命の出会いみたいに思えたんだろう」 傍らの男は、かける言葉が見つからない様子を見せ、手酌で酒をつぐと、やり切れない表情で飲み干した。 週末の日曜、さくらが手伝いに行っている子供食堂では各ボランティア達が、アフタヌーンティーのようにクッキーやらタルトを持ち込み、食堂内はハロウィーンパーティそのものの様相を呈していた。 子供食堂の代表を務める澤は、今日という日を迎えるにあたって、つてを頼りテーブルと椅子を多めに借りてきていたのだが、予想を上回る反響に嬉しい悲鳴を上げていた。 「花見さん、ごめんね。ぶっ続けでやってもらって。今やっと落ち着いてきたから10分位休憩取って」 「そんな。澤さんこそお昼抜きで、ずーっとやってるじゃないですか。私だって負けてられませんよ」 澤はそれには答えず「了解」とでも言うように親指をぐっと突き出して見せた。 子供達がパーティを楽しんでいる間、ボランティア達は本来出す夕食の支度に取り掛かる。パーティ後、子供達にお弁当として渡す為、メニューはおにぎりと卵焼きのセットとなっていた。 卵焼きもそうだが、肉じゃが、カレーというメニューはその家独自の味が色濃く反映される料理である。 さくら自身、小学生の頃、友人の家に招かれカレーをご馳走になった事があったのだが、今一つピンとこない味で完食するのに一苦労だった記憶がある。 ボランティア達は、粗熱が取れた米飯で、それぞれ昆布とおかかを入れたおにぎりを猛スピードで作ると、予め用意された容器に詰め子供達に手渡した。 文化の日、さくらは同窓会出席の為、指定された、区内においては随一とされるホテルの会場に出向いた。 会場にはすでに見知った顔が何人か認められるが、およそ20年の月日を経ても彼らの顔と名前の区別がつく自分に驚くと同時に「皆、それだけ年を取っていないという事か」と理解した。 時々女子が再会の喜びからなのか「きゃー」と歓声をあげている。 「全くいつまでたっても成長が見られないというか…」 とさくらは思い、早く悟志を見つけなければとあたりを見まわした。 会場中央には立食式の料理が置かれ、隅のドリンクバーには三人程の給仕人がスタンバイしていた。 幹事役の小笠原が前方のスタンドマイクの方へ歩み寄って行くと、多少浮足立っていた面々も水を打ったように静かになる。 「皆様、今日は小岩西北高校第56期同窓会に御出席いただき有難うございます。私、先ほど入り口の端の方で皆様のお越しになるのを見ておりましたら、やはり抜かりのない人は開場と共にお見えになり、遅刻しない日の方を数えた方が早い方は、やはり本日も5分程遅れて会場に入られました。三つ子の魂百までとは本当によく言ったものでございます。今日は有志の力添えもあり、酒、お料理共に、ふんだんに用意出来ました。どうぞ、お時間の許す限り旧交を温めながら楽しいひと時をお過ごしください。それでは…」 と小笠原が言いかけた所で誰かが 「小笠原君、ここ何時間とったの?」 と聞く。 「二時間です」 「了解。ほら、時間配分とかあるからさ。最初に聞いておかないと」 「そうですね。それでは僭越ながら私が乾杯の音頭を取らせていただきます。乾杯」 方々でグラスがぶつかる音がし、高校時代には想像もつかなかった、いい大人達の宴が始まる。 最初のうち、さくらは会場をひと回りして久々に会った友人との再会に興奮を隠せなかったが、最終的には酒屋の悟志、獣医としてクリニックを構える柏木、現在シングルマザーで家業のケーキ屋を継いだパティシエの敦子と共に円形のテーブルを囲んだ。 「なんだかんだ言っても結局、昔仲良かった友達の所に落ち着くわけだよな」 「何それ。腐れ縁っていう意味?悟志って黙ってれば二枚目半のいい男なのに、本当に嫌味ったらしいんだから」 「柏木君、仕事はどう?今、ペット産業が右肩上がりって良く言われてるじゃない?」 「うん、確かにこうしたコロナ禍にもかかわらず、患者は来てくれるね。患者って、一度その医院と信頼関係が築かれると、最後の最後まで、浮気せず通ってきてくれるから」 「なるほどね。ペットって、ただ単に可愛がるだけじゃなく、世話していく過程で、子供達に命の大切さを知ってもらう事にもなると思うから、経済的に余裕があるなら飼った方がいいのかも」 さくらの言葉に悟志がいち早く反応し 「家にも一匹いるけど、雨の日も風の日も朝、晩、散歩に連れて行く。当番制だから、基本、他の誰かに頼るというのも出来ないし、責任感を持たせるのにはいい」と話す。 ここで再度幹事が登場しマイクの前に立つ。 「皆さん、ご歓談中の所、水を差しすみません。宴も酣ではございますが、後、30分でこの一次会場はクローズとなります。せかすつもりではないのですが、まだ飲み足りない方がおられましたら、残された時間、悔いのないよう、グラスを空けて頂ければと思います」 二次会場はホテルの地下に入っているクラブで、入店する際に3000円のチケットを購入する形だった。さくらは悟志らと別れ、女子4人でテーブルにつく。 それぞれの近況は年賀状のやり取りで大体把握している為、話題は、時代とともに推移していく男達の外見についてとなる。 母親が院長を務めるクッキングスクールでアシスタントとして働いている紀香は 「サッカー部の嶋君、私、ずーっと好きでね。でも一学年下に彼女がいて、結局告白する事もなく卒業した。それが今日、彼を見た時の衝撃と言ったら。もうあのバーコード状の頭、何なの?」 と月日の経過の残酷さを嘆く。 中学で美術を教えている理沙は 「見た、見た。哀れだよね。なまじっか前がカッコよかっただけに」 と紀香に追随する。 夫と共に美容院を経営している千晶は 「昔の俺はイケイケだったんだぜって思っているかも知れないけど、そうした過去の栄光も一瞬で吹き飛ぶね」 と二人の更に上を行く。 「でもさぁ、その逆パターンもあるよ」 もったいぶるさくらに、三人は「誰、誰?」と聞く。 「Cクラスの原口君。美大出て大手広告代理店に勤めてるらしい」 「原口君と一緒にいた田中君も三菱東京UFJだし、会計士としてバリバリやってる川畑君とか、高校時代どうって事ない人が紆余曲折を経て一端の男に変貌を遂げているんだからわからないもんだよ」 「原口君てさ、谷原章介にちょっと似てない?」 「うん、似てるね。あの人、凄い愛妻家でね、自分で縫ったトートバッグを奥さんにプレゼントしたりするんだって」 「何!その素敵すぎるエピソード」 そこまで妻を一番に考えている男なら、もちろん子育てにも積極的に介入するのだろう。 妻の誕生日に夫が自ら食材を購入してディナーを作ってもてなし、後片づけまでやって最後にバラの花束を渡す程度の事は、皆、既にやっている。 これからは昭和世代には考えつきもしなかった妻へのサービスが当然の如く行われていくはずだ。 さくらは、世の夫達への要望として、ぜひ妻同伴で酒場へ来て欲しいと提案する。 普段、家で言えないような歯の浮くセリフも、酒とうまい肴の力で、スイスイ口をついて出てくるはずだから。 だが、その前に自分自身を何とかしなきゃ、だよ。 さくらは高校時代と変わらぬ調子で、無邪気にキャッ、キャッと笑い転げている友人達を見て思うも、彼らには、相手から婚約指輪を貰い、確証が取れるまで、秘密にしておこうと決意した。
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