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突然の婚約破棄
――あぁ、彼の瞳はこんなに冷たい色をしていただろうか。
彼女――三峯芳乃は、暮れゆくマンハッタンを背景に、こちらを見つめている男性を絶望の目で見る。
《……すみません。今仰った言葉が理解できないのですが、もう一度……》
震える声で尋ねると、彼――ウィリアムは整髪料で整えた金髪を掻き上げ、溜め息をついた。
《僕と君の関係は、今日で終わりだ。二年半、楽しかったよ》
形のいい唇から告げられた言葉は、〝終わり〟を示す。
《だって……っ、私……っ!》
NY屈指の高級ホテル〝ゴールデン・ターナー〟をはじめ、欧米諸国に高級ホテルやリゾートホテルを展開する〝ターナー&リゾーツ〟。
ホテルマンなら誰しも憧れるホテルの制服に身を包んだ芳乃は、ルージュを塗った唇をキュッと引き結ぶ。
まだ彼に何かを言おうとした時、COOルームがノックされた。
話の途中なのに、ウィリアムは室内に控えている秘書に視線をやり、応対するよう命じる。
《ミズ、どうぞ》
ドアを開けた秘書が口にした単語は、女性への敬称だ。
思わず振り向いた芳乃は、このタイミングでCOOルーム――ウィリアムの執務室に入ってきた女性に眉をしかめた。
《失礼。まだ話が終わっていなかったのね》
そう言ってルージュを塗った唇でニッコリ笑ったのは、くっきりとアーチを描いた眉に幅広二重の目。長い睫毛に豊かなブルネットヘアの女性だ。
着ているワンピースはラグジュアリーブランドの物で、要所に輝くアクセサリーも名だたるブランドの物だと一目で分かる。
(それに比べて私は……)
セレブのような彼女を前にすると、常にホテリエである自分に誇りを持っているはずなのに、圧倒的な敗北感を覚える。
NYへ来れば様々な人がいて、増してマンハッタンならばセレブと呼ばれる人々も垣間見る。
さらにここはあの〝ゴールデン・ターナー〟で、世界中の人が熱狂するアーティストや、有名政治家、スポーツ選手、投資家、名だたる客層が出入りするホテルだ。
そんな人たちのオーラは浴び慣れているはずなのに、芳乃は目の前の女性に圧倒されていた。
普段ならば、ホテリエとしての役割を完璧に果たし、職場にて相手を満足させる事のみを考える。
だが今はとてもプライベートな相手――恋人に呼ばれ、COOルームにいる。
そこに意味ありげに現れた女性に、動揺するのは当たり前だ。
《もう時間だったか。レティ、すまない。すぐ話を切り上げる》
恋人であるはずの芳乃を明らかに軽んじた言い方をして、ウィリアムはプレジデントチェアから立ち上がった。
(私が何を言っても、立とうとすらしなかったのに、彼女相手には立って挨拶をしに行くのね……)
立ち上がったウィリアムがデスクをまわり、悠々と歩いてレティと呼んだ女性にハグとキスをした。
(私には、ハグすらもしてくれなかった……)
NYは今、ホリデーシーズン真っ最中だ。
ホテルはかき入れ時で、上客に最高の思いをしてもらうために、スタッフ全員で心を込めたサービスをしている。
本来ならその忙しい合間に、芳乃はウィリアムとデートをし、彼の家族に挨拶をさせてもらう予定だった。
芳乃は日本の有名四年制大学を卒業したあと、三年間国内の一流ホテルで働いた。
その後、単身渡米してあちこちのホテルに連絡をし、熱意を認められて〝ゴールデン・ターナー〟で働き始めた。
初めはベルスタッフから経験を積み、ホテルの雰囲気を掴み現地で英語力を培い、多国籍の同僚たちに多言語を教えてもらった。
一年前にようやくホテルの顔とも言えるフロントに立つ事ができ、ベテランフロントの接客を見て学びながら経験を重ねていた最中だった。
ウィリアムとは働き始めて二年目に出会い、彼から声が掛かったのが交際の初まりだ。
《勤勉な日本人のベルスタッフがいると聞いたけど、君かい?》
COOルームに呼ばれて緊張している芳乃に、彼は気さくに話し掛けてくれた。
名目はCOOとして空き時間に、様々なホテルスタッフに話を聞き、現在の労働環境や気付きなどをリスニングしている……という体だった。
だがその後、明らかに仕事のリスニング以外の目的で呼ばれる事が多くなった。
《一緒に食事に行かないか?》
そう言われて、高級レストランで仕事をするのも経験のためといって、芳乃一人では行く事のできない店へ連れて行ってくれた。
他にも芳乃が生活しているアパートメントまで高級車で迎えにきてくれて、ドライブにも行った。
誕生日、クリスマスに贈り物をされ、事ある毎に花をくれる。
芳乃は学生時代から、海外の一流ホテルで働くのだという夢を胸に邁進し続けた。
男性とまともに付き合った事もなく、まじめで初心だった。
だからすぐにウィリアムに恋をしてしまったのだ。
仕事に恋に恵まれ、心の底からNYに来て良かったと感じた。
初めは渡米するのに家族に心配され、「上手くいかなかったらいつでも戻っておいで」と言われていたが、これで日本に戻らず、アメリカに骨を埋める心づもりでいた。
つい先日だって、母にビデオ通話で「プロポーズされたの!」と報告したばかりだ。
――そう。プロポーズをされたのだ。
走馬灯のように今までの事を思い出した芳乃は、ぼんやりと目の前で抱き合っている高身長の美男美女を見る。
視線を落とすと、自分の指にはキラリと光るダイヤの嵌まった華奢なリングがある。
これはウィリアムに《プレゼントだよ》と贈られた物だ。
(……てっきりこれは、プロポーズの意味だと思っていたのだけれど……)
今になって思えば、ここ三か月ほどウィリアムの態度がおかしかった気がする。
メッセージアプリで次のデートの予定を尋ねても、予定を調整中だから待ってほしいと言われ、そのまま放置されていた。
今までは仕事が終わる時間にCOOルームに呼ばれ、彼の仕事が終わるのを待たせてもらった。
ウィリアムの仕事が終わったら《お疲れ様》とキスをして、そのあとディナーに向かった。
そのような恋人らしい過ごし方が、まったくなくなってしまった。
彼はCOOだし忙しいから……と自分に理由をつけても、「なら今までは何だったの?」と意見を言う自分も出てくる。
その結果が、これだ。
《嫌だわ。あの子ったら物欲しそうに見てる》
ウィリアムからキスをされていたレティという女性が、芳乃の視線に気付いてクスクス笑い、彼から離れた。
そしてレティは、芳乃の指に嵌められている指輪に気付き、クスッと笑う。
《もしかしてそれ、ウィルにプレゼントされたの?》
嘲るように笑われ、芳乃は思わず手を後ろに隠した。
レティはゆっくりと小首を傾げ、しなやかで白い手をかざす。
美しくネイルの施された指には、芳乃がしている物など比べ物にならない、大粒のダイヤモンドが嵌まった指輪があった。
彼女が意味深に微笑んだのを見て、すべてを理解した。
――彼女が本命の婚約者なんだ。
――私は、……遊ばれた。
無力感と脱力感が、全身を襲う。
今までしてきた事すべてが徒労に終わった感覚に陥る。
芳乃自身が沢山学び、このホテルで培った経験は無駄にはならない。
だがNYに来てからの生活も、何なら日本にいた頃からホテル業界に憧れた気持ちすらも、すべて意味のないものに思えてしまった。
(恋をして結婚するために働いていたんじゃないのに……)
自分には、もっと崇高な思いがあったはずだ。
思い出そうとしても、真っ黒でグチャグチャになった醜い感情に支配され、綺麗な気持ちを取り戻せない。
「……どうして……」
思わず日本語で口走った芳乃を、レティは哀れむような目で見て、肩をすくめる。
《仮にもウィルが好きだったなら、彼を困らせないでちょうだい。別れ際にギャーギャー言う女はクールじゃないわよ》
(なんであなたに、そんな事を言われなきゃいけないの……)
心の中で反抗し、芳乃はウィリアムに訴える。
《いつからこうなっていたんですか?》
どうせなら、引導は彼に渡されたい。
沢山キスをし、体を重ねた愛しい人に、キッパリと振られたい。
そう思ったのは、芳乃の中にあるささやかなプライドだ。
けれど――。
《……君は勘違いしていないかい? 僕は一度たりとも、君にプロポーズをしなかった》
皮肉げに笑ったウィリアムの氷のような美貌を前に、芳乃は何度目かになるか分からない衝撃を受ける。
《確かに君の事は気に入っていた。可愛いと思ったし、勤勉で好ましく思った。社員以上の関係になったのも認めよう。……だが僕らは大人の男女だ。体の関係になる事もあるし、それが結婚に繋がらない事も分かってるはずだ》
困ったように笑うウィリアムは、まるで芳乃の事を問題児か何かのように扱っている。
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