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目を覚ますと今日は隣に蛇兄さんが居ない。
うっかり私のことを少し教えてしまったから、蛇兄さんは明治神宮に戻ってしまったのかと思って少し不安になった。
蛇兄さんの御伽噺は私の知らない世界で溢れていた。私にはみんなが当たり前のように触れてきた昔話を誰かに教えてもらった記憶がない。
でもみんなが知っているどのおとぎ話よりも、蛇兄さんのする御伽噺の方が私には魅力的に感じたし、選べない環境で手にした事実より、自分で選んだ事実の方が真実なのだということぐらいは私にだってもうわかり始めている。
負け惜しみのようにそう自分に言い聞かせた私は、そういえば、蛇兄さんがジョンレノンの曲をよく口ずさむことがなかったなら、その音楽に触れることもなかったし、彼の人生に興味を持つことだってなかった。ということにも気が付いた。
そして「危うく私にとって大切なモノを何も知らないままで死んでいくところだった」という真実に辿り着くと、私の背中はちょっとだけゾワリとした。これまでの私はずっと、このカラダをいくら、誰に、どうやって差し出そうとも、そのせいで間違って呆気なく死んじゃったとしても、それはそれで仕方ないことだと思っていた。
それに今までの私は、一度終わってみればまた最初からやり直せると思い込んでいる節があったし、やり直しになった時には当たり前に真新しいところから始まるような気もしていたから、私はこの私が終わることに希望さえ抱いていた。蛇兄さんはそんな私のことを叱ったりはしない。でも蛇兄さんの御伽噺は、そんな私のことを何故かよくゾワリとさせた。
両肩を自分の指でしっかりと握ると、肩に食い込んだ指のカタチが蛇兄さんの細長い指みたいに感じる。それに蛇兄さんが側に居ない時の方が、蛇兄さんの声や息遣いを鮮明に思い出せるのかもしれない。そこにはきっと私の理想や妄想が含まれているから、よりリアルに私にとっての蛇兄さんを感じることができて、私のカラダの中心は甘く軋む。
恋をすると触れたくなって、私に触れて欲しくなって、更に奥深くまで繋がりたくなるというのは、やっぱり私の性欲の所為なのかもしれない。性欲から始まるようなものが私にとっての恋だとするなら、私の過去の恋愛も全て正しく恋だったし、私はいま、蛇兄さんに恋をしている。でも蛇兄さんに対する感情はこれだけではないのだ。
私は、蛇兄さんになりたい。
私自身が蛇兄さんと同化して、全く同じものになりたい。こんな感情は初めてだった。四六時中焦がれ、身体の隅々に蛇兄さんが存在している。自分が発する言葉や、ふとした指の動きでさえも、私はいつの間にか蛇兄さんを模している。ずっとずっと、すぐに触れられる距離に居たままでいて欲しい。それで、そうしているうちに、完全にひとつの存在になってしまえればいいのにと願う。だってあの御伽噺たちやジョンレノンの実話の全部が、蛇兄さんの声で私が描く景色よりも、本当はもっと色付いているはずなのだ。とりあえずはこの目に映る全ての景色が、蛇兄さんの目から見たものと全く同じに変わればいいのに。そしたら私のセカイはもっと美しくて、きっと愛おしく感じられる。
ああ、でも、これを恋と呼び続ける自信は萎えてしまった。
自分にはどうしようもできない感情に耐えかねているうちに、鼻の奥が詰まって眼球がヒリヒリと痛む。
「おい、一人で泣くんじゃねえよ。アブラムシがわくぞ?」
寂しくて一人で泣いているとアブラムシがわいて、そのせいで葉っぱの家が壊れてしまったのは親指姫の友達の話だった。
まだ茜空を迎えていないのに、鍵を開けておいた玄関から何の気なしに入ってきた蛇兄さんはやっぱりちょっと可笑しかった。
「もう何処かへ行かないでって言ったら、蛇兄さんはそうしてくれる?」
「側に居なくて寂しいのは、ただの思い込みだからな?」
自分の理想的な量の紅ショウガが乗った牛丼を食らい尽くした蛇兄さんは、いつもよりも機嫌が良さそうだった。だから私は、うっかり自分の本音を漏らしてしまう。
「今ここで二人きりで居ると思ってるんだろ?俺しか側に居ないと思い込んでんのは嬢ちゃんだけだから。どんなに頑張ったって一人ぼっちになんてなれねえし、その一人ぼっちでさえももう、お前自身じゃないんだよ」
「難しいよ……」
「簡単さ。自分で創り上げたと思ってる自分自身でさえ、自分が視界に入れて、自分の耳が選んで拾った誰かの継ぎ接ぎで出来てんだから。大丈夫、それがわかるまでは側に居てやんよ」
こんな風に全てを察しているくせに、ちゃんと全てを教えてくれない蛇兄さんとずっと一緒に居られるのなら、私は私自身のことでさえも理解できないままでいいと思った。
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