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七月二十日 夕方、代々木公園で蛇兄さんを拾った。
大きな樹の下の縁石にドカッと座り、項垂れているから顔は見えない。
ぐしゃぐしゃの黒髪、だぼだぼの服、黒いつっかけサンダル。
通り過ぎ様に横目で見てはいけない。見惚れるなんてほど遠い様子。
持て余したように組んだ長い指。その違和感の正体は薬指に彫られたタトゥーのせいだと思う。左右の耳に開けられたピアスは確認できるだけでも合わせて五つ。大きな黒い塊の耳元で揺れるシルバーの飾りが、現代的でありながら人ならざるモノの象徴の様にも感じた。
ソレに私の心は惹かれ、そそられる。
「……ん」
ソレから声が聞こえた様な気がして、コンクリートにへばりついた靴の底を剥がす。
見下ろす私のつま先を確認したソレが徐に顔をあげても、長すぎる前髪のせいで片目しか見えない。しかしその薄い唇はじわじわと横に広がって、シューっという音と共に空気が漏れ出していた。
「ぎゅう…どん」
「は?」
「牛丼が食いてえ……」
その一言で、それまでの私がどんな言葉を望んでいたのかを忘れた。そのくらいその単語にはインパクトがあった。だけどソレにご所望された一品なら私にも用意ができそうで、だからふわりと心が躍る。でも困ったな。生憎ここは私のテリトリーではないし、近くの牛丼屋さんには心当たりが無い。
だから私は仕方なく……というワケでもないけど。
妖怪なのか、神様なのか、最悪ただの人間かもしれないソレを、自分の寝床に連れて帰ることにした。
ソレの長い身体を無理やりタクシーに押し込んでみる。
けどソレは特に抵抗することもなく、されるがままに身を屈めて後部座席に納まった。隣に座ってみるとソレからはムスクみたいな良い匂いがしていて、それに気が付いた途端に私の右半身はそのトクベツな気配に緊張する。
そして今は右の太腿がじんわりと温かい。車内には白いビニールから立ち込める甘い出汁と玉ネギの匂いが満ちていた。
同乗するソレと相容れないこの匂いのせいで、タクシーの中が異空間になる。
更には渋谷のスクランブル交差点で私たちは赤信号に捕まってしまったから、車外の人波と車内の光景がカオスを具現化させているようだった。
*
見慣れた外階段が見えてきた頃、料金は四千円近くなっていた。
錆びついて茶色くなった階段を何時ものようにカショカショと上ると、後ろからバシャンバシャンという足音が続く。そういえば、この家に誰かと帰って来るのは初めてだった。
「もう一杯も食べていいよ?」
タクシーの中で微かに「紅生姜は出来るだけ沢山」と呟いているから、私の恥ずかしさが限界ギリギリで許容できる数の紅生姜を貰ってきてあげた。
それを嬉しそうに次々と振りかけ、赤ピンクになった牛丼をもきゅもきゅと頬張る様をもう少し見ていたかった。だから自分用に買ってきたもう一杯もソレにあげることにした。
*
空なった器が丸いテーブルの上に二つ並ぶと、ソレは急に私の方へと向き直った。
「ってかさ、嬢ちゃん。こんなヤベぇ奴を拾ってきたりしたらダメだろ。俺は取って食ったりしねえけど、大概の奴はペロッと食っちまうんだから。おっと、もしかして逆に俺のことをどうにかしようと思ってたりする?それは勘弁してくれよ?」
「え……急にめっちゃ喋るじゃん?」
「おう。腹が減って何も喋る気にならなかっただけだからな?ああ、いけねえ。牛丼はどうもご馳走様。もうちっと紅ショが多い方が好みだったけど」
「くくっ……ごめんね。あれが限界だった」
「まあいいよ、助かったしな。そうだ、お礼に願い事を一つ叶えてやるよ。何でもいいぞ?」
「ふうん。やっぱりさ、妖怪とか神様とかだったんだね?」
「ふっは。まあ何でもいいよ。嬢ちゃんの好きなように思ってくれて構わねえ」
「なにそれ気になる……あっ、じゃあさ、お礼はあなたの正体を教えてもらうことにする」
「それはダメ。別のにしな?」
「何でも叶えてくれるって言ったじゃん……」
「訂正。俺の気が向くことなら何でも。に変更」
「何それ、ズルい」
「早くしないと気が変わるぞ?」
「うわあ、どうしよ……えっとね……そうだ、今から抱いてよ?」
「は?ヤベぇなお前……」
「いいじゃん。ペロッと食っちゃってよ?そういう気分なの」
「どこぞの良い女だよ?却下」
「なんで?好みじゃない?」
「そういうことじゃねえよ、でも嬢ちゃんは食うに値しねえ」
「神様だから?」
「ちげえよ。ああ、もったいねえな嬢ちゃん。こんな危なっかしい場所にこんな大男を連れ込んで、カラダなんか差し出すんじゃねえよ」
「ついて来たくせに」
「そういうつもりじゃなかったし」
私たちの言葉遊びに視線が絡むと、懐かしい感覚が蘇る。笑いを堪えて見つめ合うのはたぶん、あの頃のにらめっこと同じ。
「……ふふっ」
「っは……ははっ」
得体の知れないソレとこんな風に笑い合う。ただただ違和感しかないはずなのに、言い知れない心地良さで満たされていた。
「じゃあさ、このまま一緒に居て。っていうのはダメ?」
「こんな正体不明の奴と?」
「教えてくれないからでしょ?」
「おっと、そうだった」
「夜が長くて寝た気がしないの。誰かが一緒に居てくれれば、ちゃんと眠れるのかもしれない」
「そうやって言って色々な男を連れ込んでたのか?」
「ううん。ここに誰かが来るのは初めて」
「それなら良かった。よしっ、じゃあ牛丼のお礼は決まりだな。嬢ちゃんの寝しなには、俺がオハナシしてやるよ」
「オハナシ?」
「期限はそうだな……嬢ちゃんが一人で眠れるようになるまでだな」
そう言ってニヤリと笑った口の端からはシュルシュルと長い舌が出てきそうだった。指同士を絡めるのが癖みたいで、薬指のタトゥーが動いて見える。
それは指に巻き付く様に彫られた蛇。
そうか。目の前に居る未だ正体不明のソレは、きっと明治神宮辺りの蛇の化身か何かなのだろう。
「よく見たらそんなにおじさんってわけでもないし、蛇っぽいから蛇兄さんって呼ぶね?」
「いいよ。なんでも」
私はその時「満更でもない顔」というのはこういう顔のことなのだと知った。
*
四畳半に無理やり入れたソファーベッドの端からは蛇兄さんの足がはみ出していた。
隣に寝転んだ蛇兄さんが肘をついて語るのは、不思議と真実味のある御伽噺。でも空気を孕んだ低い声が紡ぐその世界は、確実に存在しているようにも感じる。
「……という訳で、空の上から運命の人を見つけたその星は夜這い星となってこの世に降り注いだのでした。めでたしめでたし」
「その星は運命の人に出会えたの?」
「さあね。出会える星もあるし、出会えない星もあるかもな?」
「会えなかったら切ないね?」
「会わない方が幸せなこともあるさ」
「どんな?」
「それはまた別のお話」
「聞かせてよ?」
「お話は一夜に一話って決まってるんだよ、さあ良い子はねんねしな」
こうして蛇兄さんが初めてしてくれたオハナシが終わると、私の中で流れ星は夜這い星になった。
蛇兄さんは朝になるとすでに居ない時もあったし、私の横で窮屈そうに眠ったままの時もあった。
眠っている蛇兄さんはやっぱり変で、このヒトは、人としての営みの全てが似合わないんだと思い出す。
どんな世界に行っても主人公に友達ができなかった原因が「この地球にたった一人で取り残されてしまったことを忘れたままでいる宇宙人だったから」というお話はもう六話目だったけれど、この先もまだまだ続くらしい。タイトルも無いその御伽噺の中で今のところの私にでも理解できることといえば、地球で「普通」になることを望んだ宇宙人は、そのせいで故郷と「不通」になってしまっているということくらいだった。
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