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タイガは朝からそわそわしていた。そして時間が経つにつれ、その度合いが増していた。自分でも嫌だな、と思っても本能は嘘を付かない。
授業が終わり、中学校から家に帰ると、姉のレイカがもう高校から帰っていた。普段着でリビングのソファで寛ぎながらスマホをいじっている。
「おかえりー」
顔を上げて弟のタイガを見る。
「ただいま。今日早いね」
「うん。まあね、帰宅部だし。今日はまっすぐ帰って来たし。…あ、そうだ」
レイカはスマホを置いて立ち上がった。
「今日バレンタインだから。チョコあげるね」
そう言うと彼女は二階の自分の部屋に行き、再び階段を下りて来た。
「はい」
レイカはタイガにラッピングされた小さな箱を手渡した。
「ありがとう」
「吉祥寺の駅前に新しくチョコレート屋さんができたの」
「へえ」
「食べてみて。美味しいかどうか知りたい」
「ひとつあげるよ」
「うん。でも、まずは自分で食べて。せっかくのプレゼントなんだから」
「わかった」
タイガは早速包装紙を破き始めた。
「今食べるの?」
「うん」
「あーもー、もっと丁寧に破いてよ」
「面倒臭い」
ビリビリに破かれた包装紙がテーブルの上に散乱する。箱を開けると綺麗に区分けされたチョコレートが並んでいた。タイガはそれをじっと見て、
「高かったでしょ」
「そうでもないよ」
レイカは笑う。そんなことはないだろうな、タイガは思った。いくらお菓子に疎い彼でもそれぐらいは分かる。タイガは嬉しい反面、少し申し訳なく思いながら、一つチョコをつまみ上げて口の中に入れた。
「おいしいよ」
本心で言った。そしてチョコの入った箱をレイカに差し出す。
「お姉ちゃんも食べて」
「いいの?」
そう言うとレイカは遠慮なくチョコを一つ取った。最初から自分も食べることを前提で買って来ているのが表情で分かる。でもそれ以上はどんなに勧めても食べない。弟のために買ったからだ。それは毎年の事だった。
「おいしいねえ」
レイカはしみじみと言った。タイガはその横で姉の顔をじっと見つめていた。
レイカは学校では部活には入らず、アルバイトもしていない。彼女にはそれらが出来ない事情があり、その理由は母親がいない事だった。
レイカとタイガの母は五年前に病気で急逝した。以来、レイカがこの家のほとんどの家事をしている。会社員の父親は仕事で忙しい。タイガが行う唯一の家事は風呂場の掃除だけだった。
「タイガ、勉強はどう?」
レイカはチョコレートの味がまだ口の中に残るのを感じながら聞いた。
タイガは受験勉強の最後の追い込みの真っ最中だ。この月の後半に受験を控えている。彼は家の事も考えて公立高校一本に絞っていた。
「まあまあだよ」
彼は姉に心配をかけないように平静な口調で言った。
「体、気を付けてね」
「うん。ありがとう」
姉の気遣いが身に染みる。二人の間にわずかな沈黙が訪れたその後、
「ねえ、今年もマイちゃんくるかな?」
レイカは少し弾んだ声で言った。途端にタイガの体は火照り出した。レイカは敏感にそれを察した。
「小学校一年の時からずっとチョコ渡しにわざわざ家まで来てくれてるもんねー。今年も来るよねー、きっと」
そう言って、いたずらっぽくタイガの顔を見る。
「…さすがに今年はもうないでしょ。受験も近いし」
「いや、来てくれるよ、絶対!」
レイカは励ますように言った。タイガは照れながら下を向くしかなかった。
マイはタイガの家の近所に住む、彼の幼馴染だ。歳が同じこともあり、幼いころは二人でよく遊んだ。そして彼女は小学校一年の時から毎年欠かさず、バレンタインデーの日にチョコレートをわざわざタイガの家まで渡しに来た。中学に入ってもそれは続き、渡しに来てくれるのは嬉しい半面、申し訳なくもあり、恥ずかしくもあったりでタイガは複雑な気持ちだった。
なぜこの歳まで律儀にチョコを渡し続けるのか不思議だった。マイがタイガに対して異性として興味があって、というのは彼に対するその態度やある理由から少し考えにくかった。
今は二人とも同じ中学に通うが、三年間二人は同じクラスになった事がなかった。そんな今では顔を合わせたら挨拶する程度の関係だ。そして去年の夏ごろにタイガはマイに関するある噂を耳にしていた。マイには付き合っている彼氏がいると…。
日は暮れて時間は午後の六時を回った。タイガは二階の自分の部屋で勉強をしていたが、内容は頭に全く入っていない。例年なら大体この時間にマイは来るのだ。
タイガがボーっとしていると、インターホンが鳴った。と同時にタイガの心臓が大きくドクンと言った。少ししてレイカが駆け上がる様に階段を上ってくる。
「タイガ、マイちゃん来たよ!」
レイカはノックもせずにタイガの部屋のドアを開けて言った。タイガはぎこちなく立ち上がる。
「しっかりしなよ!」
そう言ってレイカは彼の背中を強めに叩いた。そして先に階段を下りて行った。タイガもふわふわした足取りで階段を下りていく。彼にも良く分かっていた。今年が最後だろうと。
階段を降りたタイガが玄関の扉を開けると、玄関から少し離れたところにマイが立っていた。
少し寒そうにしているマイは、灰色の少し大きめなダウンジャケットを羽織り、下半身は細身のジーンズと白のスニーカーを履いている。手に茶色の毛糸の手袋をして、首にはクリーム色のマフラーをしていた。彼女の艶のある黒い髪とマフラーの明るい色の対比が彼女の魅力をよく引き立てていた。手には小さな紙袋を下げている。
「こんばんは」
マイは明るく話しかけた。タイガは照れてしまって、首を少し下げる事しか出来なかった。
「はい、毎年恒例のチョコレート」
そう言ってタイガに近付き、持っていた紙袋を彼に差し出した。
「ありがとう。いつも」
タイガは紙袋を受け取った。それから少し間があった。
「今年で最後だからね」
マイが笑いながら言った。そう思っていたが、改めてそう言われると寂しい。ならばこれだけは聞いておかないと。
「あの、マイさ」
タイガは顔を上げた。彼女と面と向かって話すのもいつ以来だろうか。
「ん、なに?」
マイは少しだけ首をかしげる。マイの少し低い鼻が目に入った。そこがマイの顔の、タイガが一番好きなところだ。
「なんで毎年、俺にチョコレートくれたの?確かに昔は仲良かったけど、今はクラスも違うしさ、学校でもほとんど話さないじゃん」
「あ、私からチョコ貰うの嫌だった?」
「いやいや!そういうことじゃないけど、でも不思議で…。嬉しいけど中学に入ってもくれるとは思っていなかったから」
マイはふっと息を吐いて、
「まあ、そうだよね。…本当のことを言うとタイガに、というのはちょっと違うの」
「え?」
「タイガのお母さんのため、だね」
「俺のお母さん?」
「うん。毎年チョコレート渡しに来ると、まずタイガのお母さんが玄関に来てくれて、その時とっても喜んでくれたの。それが嬉しくって。お母さんの笑顔が見たくてチョコ渡すみたいのところあったの」
「そうか。でも…」
「それと、もう一つ。…私さ、昔ピアノ習ってて、それが嫌で嫌で。お稽古の帰りに暗い顔して帰っていたら、タイガのお母さんに会って。その時ついお稽古が嫌なこと話しちゃったんだよね。そしたらタイガのお母さんが気をまわしてくれて、遠回しにその事をうちのお母さんに伝えてくれたみたいで、それがきっかけでピアノのお稽古やめることが出来たの。本当は自分で言わなきゃいけなかったのに。その恩があるから、確かにもうタイガのお母さんはいないけど、中学卒業まではタイガにチョコ渡そうって自分で決めたの。タイガのお母さんへの感謝の気持ちを込めて」
そう言うとマイは少し潤んだ目でタイガを見つめた。その表情を見てタイガは母の通夜の時の彼女を思い出した。両親に連れられてきた彼女は式場にいた誰よりも泣いていた。その理由が今ようやく分かった気がした。
「そうだったんだ」
「うん。でも別にタイガの事がどうでもいいってことではないよ」
「いや、それはべつにいいんだけど。あのさ…」
「なに、まだなんかあるの?」
「いや、俺に渡していいのかって」
「は?なんで」
「だってマイ、彼氏がいるって聞いたから」
マイは眉をひそめた。そして間髪入れずに、
「別れたよ、とっくに!」
「え?」
「それ去年の秋ぐらいの話だよ。知らなかったの?」
「いや」
「なんで知らないのよ!私のこと興味ないでしょ」
「いや、俺の周りの友達は俺も含めてあまりクラスでも目立たない方だから。そういう話は余り耳に入って来ないんだ。マイに彼氏ができたことしか、俺には」
マイは大きく息を吐いた。
「付き合ってたの二カ月くらい。何回か二人で出かけただけ。会話も弾まないし、悪い人ではないんだけど続けるのは難しいと思って、私からお願いして別れちゃった。…なによ、嬉しそうな顔して」
タイガは自分が嬉しそうな表情をしているだろうな、というのが自分でもわかった。実際それぐらい嬉しかった。マイもその顔を見て笑顔を見せて、
「受験、もうすぐだね」
あえて話題を変えた。
「うん」
「第一志望、いっしょだよね」
「うん」
それはタイガも知っていた。同じ塾に通っているからだ。そこでもあまり会話はしなかったが、その辺りの情報は入ってくる。
「あ、あのさ」
タイガは身を乗り出すようにして言った。
「なに?」
「もし、お互い合格したら…」
「合格したら?」
マイは学力に余裕をもって選んだ志望校。タイガは担任の先生の反対を押し切って、背伸びをしての第一志望。それでもなぜこの学校を選んだのか、その理由はただ一つ。
マイは言葉の先を待っている。しかし、タイガはその後の言葉が続かなかった。言える勇気なんてないのは分かっていたけど、気持ちだけは伝えたかった。マイは見かねて言った。
「来年もチョコちょうだい、ってこと?」
タイガはうなずいた。マイはわざとらしく考える素振りをして、
「まあ、考えとくよ」
一言、そういって笑った。最高の笑顔だった。タイガにはそれで十分だった。
「帰るね。私も勉強しないと。私だけ受験落ちたら、シャレにならない」
それから、彼女はもう一度笑った。
マイはいなくなり、タイガは家に入って凄い速度で階段を駆け上がり部屋に入った。それからドタバタと大きな音を立てた後、部屋はしんとした。
一階のキッチンで夕食の支度をしていたレイカはくすっと笑って、
「はりきっちゃって」
そう小さく言うと、今日は気合入れて料理するか、と包丁を持つ手にぐっと力を入れた。
完
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