瑠璃と薫る

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 昨年の夏、夫が浮気相手の女の夫に殺害され、まだ数えで2歳の娘、瑠璃と二人切りで正月に帰省した真梨子。  3年前まで自分の部屋として使っていた2階の部屋の床に座り込みながら今となっては煩わしい諸々の思いが映像となって走馬灯のように蘇り去来した。その内、頭がぼんやりして来て知らぬ間に兄の息子の昇平が入って来て瑠璃と戯れ出した。やがて瑠璃が戯ける昇平に笑いながらついて行ったので部屋の中に独り取り残された。  昇平は瑠璃があんまり可愛くて溜まらないので笑わせるのに夢中になって廊下に出てからもでんぐり返ったりして階段の降り口までやって来た。そこで調子に乗って得意の逆立ちをして見せると、瑠璃が大喜びしたので、つい図に乗ってそのまま階段を降り出した。  なお一層、大喜びする瑠璃に頗る気を良くした昇平だったが、まだ10歳の腕力では如何ともし難く堪え切れなくなり、踊り場に後2段の所で逆立ちを中断するべく体を捻って足を踊り場に着地させようとした。ところが腕がガクンとなった弾みに体勢が大きく崩れてしまい、勢い階段から転げ落ちた。  階段の降り口からずっと見ていた瑠璃は、アクロバットを見世物にする曲芸師を見物するかのように猶も大喜びした。  ドタンバタンと物凄い物音を立てながら1階の廊下の床や壁にぶち当たってぶっ倒れてしまった昇平の下へ真っ先に駆けつけたのは、1階の居間で両親と寛いでいた昇平の父、取りも直さず真梨子の兄、見晴だった。 「昇平!昇平!」  白目を剝き青くなってしまった昇平の顔に向かってピクピクと小刻みに痙攣する体を抱きかかえながら泣き叫ぶ見晴。  それとは対照的に瑠璃はまるで昇平のショーをまだ楽しんでいるかのように無邪気に笑い続けていた…    コロナ禍で救急搬送困難事案の件数が急増していた時だったから救急車を呼ぶも搬送先が中々見つからず救急車の中で応急処置を受けていた昇平は、その甲斐も虚しく儚くも事切れてしまった。  何故、昇平は階段から転げ落ちたのか?何故、瑠璃は笑っていたのか?瑠璃が面白がって昇平を突いた、その拍子に…そんな風に考えるしか辻褄が合わなかった。  夫は浮気相手の女の夫に殺害されるわ、娘は従兄を殺害した容疑を掛けられるわ、自分は兄夫婦からも両親からもお前は悪魔の子を産んだ魔女だと責められているような気がするわで正月早々踏んだり蹴ったりどころの騒ぎでなくなった真梨子は、どうにも居たたまれなくなってしまった。  帰途に就き、Uターンラッシュの最中、高速道路で大渋滞の責め苦に遭い、隣を見れば、助手席に座りながら思い出し笑いをするように何やらにたにたする瑠璃。それが夜の暗い中、道路灯や車のテールランプに照らし出され、不気味さを増して、ぞぞっと背筋に冷たいものが走り、身の毛がよだち総毛立ってしまう真梨子。  私はバリバリのキャリアウーマンでこの子を女手一つで育てる自信はあるが、とてもじゃないが愛情を注げない…嗚呼、何の因果であんな男とできちゃった婚してこんな子を産んでしまったんだろう…真梨子はこの上なく運命を呪い、遣る瀬なくなるのだった。  瑠璃は生まれながらにして愛くるしく魔性を持っているものか、名前通り何となく青みがかった玲瓏たる瞳がそうさせるのか、男の子をとんでもない方向へ誘惑してしまう、そんな危険な薫りを漂わせる美少女だった。  或る時も川が近くにある公園で男の子と遊んでいると、泳いで見せて、あたいを喜ばしてと唆したものか、男の子を水死させてしまった、と言っても誰も瑠璃を疑わなかったが、真梨子だけは疑っていた。  兎に角、瑠璃を喜ばす為に無理をしてしまうものか、瑠璃と遊ぶ男の子が命を落とさないまでも大怪我をしたり生傷が絶えなかったりで悪魔の子を持つ身は辛いと嘆かない日はないといった塩梅に気が休まらないまま盆休みを迎えた真梨子は、同僚の家族と山間の河原でキャンプをやることになった。  相手の家族に男の子がいたら断っただろうが、相手の家族も子供が女の子一人なので断るのも悪いと思って応じたのだった。  で、何の問題もなく楽しく過ごして夕方になって昼間に釣った魚を皆で焼いたりして夕食を取っている時だった。匂いに釣られて山から降りて来たものか、河原に大型の熊が二頭現れた。  当然ながらパニックに陥る所だが、瑠璃だけは何故か落ち着いていた。案の定、二頭の熊は両家族に襲い掛かって来たが、結局、世間的には両家族5名は、行方不明者にされる仕儀となった。  それから16年の歳月が経ち、疾っくに時効が成立して死亡と見做された5名とは全く関係なく大学のサークルで同河原から登山を楽しむ大学生たち。その中で薫は、ストレイシープだからだろうか、独り皆から逸れて道に迷ってしまった。確かこの周辺だったよな、あの子が行方不明になってしまったのは…そんなことを漠然と想っている内に一度足を踏み入れたが最後、帰還した者はないという危険区域にまで入ってしまった。  このエリアに捜索隊が入って行方不明者を探しても見つかった試しはなく、どうしたものか、死体や白骨死体が見つかることもないのだった。  またエリア内に山水湖があることから骨まで食い尽くす魑魅魍魎が住んでいると世間では噂され恐れられていた。  現代日本に於いて、否、近未来の日本に於いて魑魅魍魎なぞという存在を信じられよう筈がないとの見方が妥当のようだが、人々は或る意味、神秘がかったことに直面して魔が差した状態といったところか。しかし、もちろん薫はそんな神秘に浸っている場合ではなかった。嗚呼、もうこの山林から逃れられないのか!今にケダモノが…そう差し迫る危険を感じた丁度その時、一つの物影が草むらの中で動いたかと思うと、唐突に踊り出て、あっ!うわ!きゃー!と驚きの声と悲鳴の声を立て続けに上げた彼は、須臾の間に気絶してしまったのだった。  どれだけ眠っていたのだろうか、気付けば、真っ白な部屋の真っ白なベッドに寝かされていたのだった。  まるで薫の睡眠を妨げないようにしているようにシーンと静まり返っている。  そんな中で突然、チャランチャランとチャイムが鳴り響いた。続いて、「は~い!」と言う妙齢の女の美声が響いて来た。  薫は耳を澄ましていたので、やがて玄関ドアを開ける音と思しき音が微かに聞こえて来た。 「ああ、昇平ちゃん、あなただったのね、そうね、今日はあなたの番だったわね。でも今日は特別なお客さんがいるからお預けよ」  ひょっとしてお客さんとは僕のことか、だとすると、お預けを食らったしょーへーちゃんとは…そう思った薫は、何はともあれベッドを降りて窓に駆け寄るや白いカーテンを開けた。  すると、余りにも意外な光景が目に飛び込んで来て、なんと崖の上を玄関から出て来たものか、一匹のタヌキが肩を落としながらとぼとぼと二本足で歩いているのが見えたのだ。正にシュール。  崖と分かったのはタヌキの歩いている少し向こう側が切り立っているらしく押し迫って見える向かうの山の中腹と自分の目線との位置が同じ位の高さなのだ。  つまり、こちらとあちらとの山間には当然ながら谷があり、この家は山の崖の上に建っていると想像がつくのだ。何故こんな所に家を建てたのだろうか、どんな方法で建てたのだろうか、あのうら若き女と思しき綺麗な声の持ち主は、この家の主でもあろうか、そして僕は何故ここにいるのだろうか、それらの思いで摩訶不思議な気分になった薫は、いても立ってもいられなくなった。  そんな彼を再び、しじまが細波のように襲って来た。誰一人いる筈がない山奥にいることを悟らせるような静けさだった。いつまで続くんだと思わせるに充分な時が経った時、否、かの女が来るのを鶴首する余りそう感じただけだったのだが、この部屋に向かう足音が空谷の跫音さながらに聞こえて来た。  薫は白いドアが開くのを予期して白いドアに穴が開くほど目線を集中した。矢張り足音は白いドアの直ぐ向かう側で止まった。  カチャッとドアノブの音がして白いドアが開きかかった。  出て来たのは年の頃は十八九で白いネグリジェを着、気持ち青みがかった、玲瓏たる瞳を輝かせる妖艶な美少女だった。 「あっ、起きてたの。良かったわ。気がついたのね」  薫はその美しさに思わず息を呑み、とても懐かしい人、それも恋しい人に出会った気がした。一目惚れした上に過去に何処かで会ったことがある気がしたのだ。  そんな薫を見て美少女は他の男とは一線を画す何かを感じてときめいた。穢れのない童心を保ったまま成人になった薫を看破して嬉しく思ったのだ。16年来、会えなかった幼馴染みのことを…そう、彼女は成人になった瑠璃だったのだ。    16年前、瑠璃は熊に襲われた時、独りだけ食い殺されずに済んだ。それどころか前世が人間で救われない男だった、その熊を始めその類のケダモノたちに将来途轍もなくいい女になると目星を付けられた為に救世主として崇められ、山神とも女神とも後に瑠璃様とも称された。  元来、常軌を逸していた瑠璃は、自分を神と信じるケダモノたちの前世の能力を復活させる神通力をいつの間にか宿し、救世主としての施しの代償としてケダモノたちに自分の家を作らせ、衣服を作らせ、食べ物を作らせるなどして山での生活を営むようになった。  必要な工具や材料や部品はどう調達したのかと言うと、神通力でケダモノたちを一旦人間の姿に変化させ、山を降りさせ、必要な物を店から盗ませ、韋駄天の如く逃走させ、持ち帰らせるのである。で、太陽光発電システムまで作らせ、オール電化の暮らしも出来るようになった瑠璃は、他にも山の幸を調達させたり言語やあらゆる知識を養ってもらったりしたが、這般すべてを自分に対する功徳とした。  斯くして山の中でいたれりつくせりの生活が可能になった訳だが、白い家は捜索隊に見つからないように山の急斜面から突出した崖の上にある岩窟を巧く利用して造ってあり、崖から移動する時は口笛で合図してケダモノを呼び寄せ、ケダモノの背中に乗って移動するのである。壁などが白いのはケダモノたちが食い殺した人間の骨や畜生の骨を砕いて塗り壁の材料や染料の素にしているからでケダモノが薫を襲って食い殺さずに白い家に運んだのは彼がイケメンだからである。つまりケダモノたちは供物として瑠璃にイケメン男の献上もしていたのである。  そして瑠璃は自ずと男を誘惑するフェロモンを発散する自分に対して只々欲情するイケメン男を神通力でケダモノに変化させ、他のケダモノ同様下僕にするのである。それは微温的な方で実は偏に自分の体目的なのに君を我がテクニックで喜ばしてあげようと言って自分と交わろうとするイケメン男に至っては、ケダモノに蛇の生殺しにさせた上で八つ裂きにさせ、部分部分を肉料理として料理させ、食すのである。  で、薫は自分の供物にされたイケメン男の中で唯一純愛を、而も幼馴染みの時そのままの純白な心を保ったまま愛情を示してくれたので幼年期に自分の為に負った古傷まで跡が残らないように神通力で綺麗に治してやってパートナーとして選び、爾来、ケダモノによるイケメン男の献上は肉料理としてのみ行わせ、薫には特別上等な猪の肉料理よと担いで仲良く食していた。  で、瑠璃はケダモノたちの言う功徳の現れ、即ちケダモノたちへの施し、有り体に言えば、性感マッサージとかそんなことを続ける中、ケダモノたちと自分との関係を薫に教えた上で、ここなら感染させようとするコロナウイルスや人からも血税を徴収しようとする税務署からも徴兵しようとする国防省(自衛隊が国防軍となり防衛庁から名称が変わった)からも逃れられるわよ、そして一生衣食住に困らずにあたしと暮らせるのよと言うのだった。  それは正にその通りで常緑樹が鬱蒼と茂り、一年中青々として新芽や嵐気までが瑠璃と薫り、男を誘い、ケダモノたちは飽食となり、瑠璃様のお陰だと供物を惜しまず、夏なぞは幸せの青い鳥のように高地ではルリビタキが、谷間の渓流ではオオルリが飛び交う山の山水湖で、一糸まとわぬ姿になって戯れる二人の姿は、正に梅に鴬と言え、誠に幸せそうで美しいもので、それはまるで別天地に咲く青と白の薔薇がグラデーションを描くように舞い踊るのである。                
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