時影の神の愛しい牢獄

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 するりと、頬に流れる何かの感触で目を覚ます。何かが軋むような、そんなかすかな音が聞こえた気がした。  数度、重たい瞼を瞬かせる。透き通る程に、真っ白な世界。  ここは、どこだ。  古い神殿のようだった。  どこまでも広い空間。石なのか何なのか、硬そうな白で出来たいくつもの巨大な柱が、遠い程に高い天井を支えている。  見覚えのない場所だと思うと同時に、見たことのある景色だと感じる、相反する感覚に戸惑う。そして、それと同時に胸に湧き出る疑問。  僕が、覚えていることは?  この場所がどこであるかということ、それ以前に。自分は一体、誰で、なぜここにいるのだろう。  思い、歩き出そうとして気付いた。身体が、動かないという事実に。  氷か、石か。  視線を下に移せば、自らの身体に透明ない茨が巻き付いている。その一部にでもなってしまったかのように、身体はたくさんの茨に飲み込まれていた。  不思議に思いながら下から上へと視線を流せば、身体に絡みついた茨は、周囲の巨大な柱と同じように床から天井まで昇っていた。磔にでも、されているかのよう。  それどころか。  僕は、生きていないのか?  身体を覆う茨の内、いくつかのそれは、胸の辺りを穿っていた。胸から零れた液体が、透明な茨を白く染め、固まっている。どうやら随分と前の傷跡のようだ。  知識として、この胸の奥にある、心臓を貫かれれば命を失うことを知っている。だとすれば、自分はすでに死んでいるのか、それとも。 「いや。死んでいるのならば、こうして見ることも出来ないか」  長い間使われていなかったらしい声帯が震え、掠れた低い音が零れ落ちる。これが自分の声なのだろうかと、そんなことを思った。  僅かに動く首だけを回して、周囲を見渡してみても、何の感慨も湧かない。どこを見ても、そこは白い世界であった。  周囲に余程何もいないのだろう。音どころか、空気の震えさえも感じられない静けさ。柱しかなく、壁の一つもないというのに、肌を撫でる風の感覚すらない。  異様だと、知識だけが宿る頭が告げていた。  まるで、時が止まっているかのようで。  なぜ、僕はここにいるのだろう。なぜ、このようなところに、このような姿で。  服の一つも身に着けぬまま、茨に囚われた自分は、一体何なのだろう。  …………っ!  ふと、顔を上げた。気配を感じたわけでも、何でもない。ただ、そちらを見た。自分を捕らえた茨の群れの、一番近くにある、柱の向こう。と言っても、かなり距離があるわけだが。  なぜか、そこを見なければならない気がした。なぜなのだろうか、何も分からないまま、ただ。  胸を襲った、切迫感と焦燥感と共に。  待ったのは、ほんの数秒の間。柱と柱の間に広がる、白い世界。現れたのは、白い、しかし血の通った色をした、誰かの手だった。 「……っしょっと」  白い世界の下の方から、まるで這い上がるようにして現れた、ひとりの女。床の上に立ち、ほっとしたような表情で、彼女は伸びをする。  布を巻いたような簡素なその服から、ほっそりとした腕とすらりとした足が伸びていた。真っ黒な長い髪を持った、愛らしい容貌の女である。目が悪いのか、縁のある眼鏡をかけていた。  彼女はその手に持っていた、何やら紙のようなものを大事そうに抱え直し、こちらへと歩み寄って来る。紙の他に持っていたらしい羽ペンとインクの瓶を確認しながら、慣れた様子で足を進めて。  すぐ目の前で、足を止めた。 「カースィム様。本日もそのご尊顔を、この手で描き留めることをお許しください」  女はそう言いながら、地に膝を付き、頭を下げる。尊い者に礼を尽くすかのように。  一体誰に向かって言っているのだろうかと思いながら、その様子を眺める。深々と礼の形を取る彼女の言葉に、応える声はないようだけれど。  そこまで考えて、動く範囲で首を傾げた。もしかしたら、だけれど。 「カースィムというのは、僕のことか?」  ぼそりと、呟いた言葉。しんとした空気の中に響いた低い声。  目の前で頭を下げていた女は、一瞬、肩を震わせると、おそるおそる顔を上げる。「……え?」と、彼女は驚きの声を上げ、こちらを見ていた。 「ご挨拶出来て光栄です。ゼッル・ワクト、カースィム様。私はラァファー・シュオール、シーリーンと申します」  一拍の後、正気に戻った女は、そう言って再び頭を下げる。焦ったような表情で、先程よりも深々と、床に額を擦りつける勢いだった。  彼女の言葉で、自分がゼッル・ワクト、カースィムという者だということが分かる。だが、それが一体どのような名前なのかが分からなかった。 「敬称を付けているから、カースィムが名前か? ゼッル・ワクトとは?」  知識はそこそこ入っているようだと思っていた頭は、自分に関連することを覚えていないようで。考えても分からず、素直にそう問いかける。  彼女は不思議そうな顔でおどおどと顔を上げると、「さようでございます」と応えた。 「ゼッル・ワクトというのは、貴方様が司る神格です。時の影、過去を司る神であるという意味を持つ称号となります」  彼女の言葉に、カースィムは頷いた。 「なるほど。では、お前の名はシーリーンというのか。ラァファー・シュオール、というのは?」 「感情の波の一つ、憐れみを司る神格の称号となります。カースィム様のような主神格のお方からすれば、ちっぽけな震えの派生でしかない存在です」  こわごわとした様子で、シーリーンはそう話す。どうやら彼女が司る神格と自分が司る神格では、比べ物にならないほど、自分の神格の方が上であるらしかった。  カースィムからすれば、目覚めたばかりで、そのようなことなど正直どうでも良かったが。 「ここはどこで、僕は一体なぜここにいる?」  疑問に思っていたことを問いかける。シーリーンは少しだけ躊躇うような素振りを見せた後、「あの、その前に、一つ伺ってもよろしいでしょうか?」と訊ね返してきた。 「カースィム様は、忘れてらっしゃるのです、か? この場所や、……ここにいる理由を」  困惑の表情で、シーリーンは言う。その言葉で、分かった。自分がここでこうしていることには、何かの理由があるということを。 「一般的な知識はあるようだが、この場、ここにいる理由など、自分のことに近付くにつれて分からなくなる。神格という以上、僕は神なのだろうが、その自覚もない、と言えば良いか」  「だから、教えて欲しい」と素直に言えば、シーリーンは納得したらしく、こくこくと頷いていた。「私で分かる範囲のことで、恐縮ですが」と言いながら。 「ここは楽園と呼ばれている場所です。神々が過ごす地であり、神々が住まう神殿があります。私たちがいるここは、ゼッル・ワクトの神殿です」  「カースィム様のお住まいですね」と続いた言葉に、なるほどと頷いた。それでは。 「神格の高い神とは、こうして神殿に縛り付けられているのが普通なのか?」  もしそうであるならば、ここで自分がこうしているのも当たり前だが。思い、問いかければ、シーリーンは少しだけ躊躇うような素振りを見せる。「残念ながら、そうではありません」という彼女の表情は暗かった。 「カースィム様は、ご自身の選択で、眠って頂くことになったと聞いています。予知を司る神が視た、未来のために」  言いにくそうに告げたシーリーンに、数度瞬きをした後、問う。「その、未来というのは?」と。  シーリーンは躊躇うように何度も口を開閉させた後、口を開いた。 「私も詳しくは知らないのですが、カースィム様が、未来を司る双子の兄君、カーミル様の、命を奪うというようなものであったそうです」  未来を奪われないために、過去を滅した。そういうことなのだと、シーリーンは言った。 「ですが、完全に過去を消すわけにもいかず、こうしてカースィム様には眠って頂くことになったのだとか。私がラァファー・シュオールとして目覚めるよりも前の話ですので、詳しくは」  申し訳なさそうに、シーリーンは呟く。カースィムはそれに首を振り、「教えてくれるだけで助かる」と返した。実際、彼女が教えてくれなければ、自分が何者か、なぜここにいるのかも分からなかったのだから。  しかしシーリーンは少しだけ居た堪れないように目を彷徨わせた後、「これも、私の勤めなのですが」と、口を開いた。 「神の力は、思いの力です。こうして目覚め、貴方様がカーミル様の命を奪うことを強く思うだけで、カーミル様の命が脅かされることになります。もちろん、カーミル様とカースィム様は同じ神格ですので、そう簡単にカーミル様が害されることはありませんが。貴方様が目覚めたことは、主神様に報告させて頂きます。そうすれば、また、眠って頂くことになるでしょう」  「貴方様の眠りを監視することが、私の仕事ですので」と、申し訳なさそうにシーリーンは呟いた。彼女の立場上、仕方のない事なのだろう。  けれど、あまり納得のいく話でもない。自分は兄だというその神を知りもしないのに、命を奪う恐れがあるからと、眠ることを強要されるとは。  せめてもう少しだけでも、起きていたい。そう思うことは、間違っているだろうか。動くことさえ、出来なくても。 「何もしない。何も求めないから、起きていてはいけないか?」  だから、誰にも、何も言わないで欲しい。  そう暗に伝えれば、シーリーンは困ったように眉を下げる。「それは、私の権限では」と。  当然と言えば、当然であろう。自分よりも随分と格が下だという彼女に、決定権などあるはずもない。  抜け道があるとするならば。 「期限を設けよう。三ヶ月、いや、ひと月で構わない。教えて欲しい。僕の目に見える以外の場所の景色を。ひと月もすれば、素直に眠るから。あなたは僕よりも、格が下なのだろう?」  自分が格上の存在である、ということが上手く理解出来ないが、そうであるならば、シーリーンは自分に逆らうことも簡単ではないはず。  それに、思いの強さで何らかの力が使えると言うならば、彼女に害を与えると言うことも可能だろう。  まるで脅しのようにシーリーンに告げれば、彼女は大きな青い瞳をぱちぱちと瞬かせて。「そうですね」と、妙に納得したように頷いていた。 「カースィム様であれば、私を殺すことも、この場に動けなくすることも簡単なことです。分かりました。脅されたので、報告できなかったと後ほどお伝えします」  「その代わり、約束を守ってください」と言う彼女は、なぜか少し嬉しそうな表情をしている。先程までは、怯えているようだったのに。 「僕が眠らない方が、都合が良いのか?」  思わずそう問いかけた。シーリーンは慌てたような様子で、「あの、えっと」と呟くと、言いづらそうな顔で、手元の紙を探った。  そうして、一枚の紙を見せてくる。真っ白な紙に描かれているのは、一人の髪の長い男。 「今まではお眠りになっている姿しか描けませんでした。主神様や、美を司る神々よりも美しく、儚いと伝え聞く、そのご尊顔を。不躾ながら、この手で描き留めたられたらと、ずっと願っていたのです」  「ですから、お願いです」と、彼女は続けた。 「主神様や、他の方々に黙っている代わりに、絵のモデルになってもらえますか?」  記録することも、彼女の仕事なのだという。むしろ、その能力を高く買われたからこそ、彼女が自分の監視となったらしい。芸術を司る神の次に、絵を描く才能があったから。  おそらくは、その対象が自分という、憐れみを持ちやすい者であったから、というのもあるだろう。予知ゆえに眠りにつかされた、格の高い神だから。  そのくらいのことであればと、絵のモデルもとい、記録することを了承する。どうせ動くことも出来ないのだ。気にすることでもない。  シーリーンは嬉しそうにその表情を明るくすると、「ありがとうございます!」と大きな声で言い、深く頭を下げた。  シーリーンはそれから毎日、カースィムの元を訪れた。光が降り注ぐそこに、一日の概念など存在しなかったけれど、彼女によると、この神殿の外には一日の時の流れが存在しているらしい。この神殿の中だけが、それを感じられないようになっているだけで。 「この神殿は凍結されています。主神様方の力を使って、貴方様の力が外に漏れないように。それでも、過去というのは一秒ごとにその存在を増して行くもの。カースィム様が眠っておられようと、絶え間なく。この凍結に意味はないのだと、誰もが理解しています」  それでも、そうせざるを得なかった程に、高い神格を持った神だという。自分は。自覚も何もないため、そういうものなのかと思うしかないけれど。  シーリーンは少しだけ笑って、「お伝えし損ねていたのですが」と、手元の紙の上に絵筆を走らせながら、再度口を開いた。 「貴方様の位は、主神様と同じ位置にあります。主神様の存在もまた、過去と未来から成り立っているのですから。だからこそ、貴方様は自ら眠りにつかれたのです。過去が存在しないわけにはいかず、主神様やカーミル様を脅かし続けるわけにはいかない、と言って」  「皆が、貴方様の自己犠牲を称賛しております」と、彼女は言うけれど。  自分という存在は随分と、献身的な神だったのだなと、少し呆れてしまった。何も、身動きも出来ない状態で眠りにつかなくても良いだろうに。その方が、周囲が安心すると思ったのだろうけれどだ。  と、「このようなことを言っても良いか分からないのですが」と、紙に視線を向けたままのシーリーンは呟いた。 「こうしてカースィム様と過ごしていると、予知の方を疑ってしまいます。予知とは、あくまでも先にある道筋の一つであり、確定した未来ではないはず。だというのに、こうして貴方様が眠りにつくことは、本当に正しいのでしょうか。私には、カースィム様がそのようなことをするとは思えなくて」  「たった数日、話しただけですけどね」と言って、彼女はこちらに視線を向け、困ったように笑う。そうして、「出来ました!」と手元の紙を見せて来た。  真っ白の長い髪に赤い瞳を持つ、異様に美しい男。茨の群れに囚われていながら、穏やかな表情で佇んでいる。彼女の目には、そんな風に映っているのだろう。  記録として、目を開けた自分を描くのはどうかと聞いたけれど、これはあくまでも自分の個人所有物だからと言う。思っていたよりも、融通の利く性格なのだろう。  憐れみの神であるがゆえにか、彼女は随分と、カースィムに同情的だった。カースィムの姿を紙に描いていない時には、神殿の外の景色を描いた紙を見せてくれる。  どこの木の何という木の実が美味しくて、どこの湖のこの時間の景色が美しい。ここに描かれているのは何という神で、どのような性格で。この鳥は何という鳥で、どのような場所に住んでいる。  身動き一つ取れないカースィムにとって、それはとても楽しい時間だった。なんとなく知っているような、知らないような景色を見ながら、嬉しそうにそれについて語るシーリーンと共に過ごす時間が。  稀にカースィムが微笑めば、顔を真っ赤にして紙に何かを描き始める。そんなシーリーンとの時間は、本当に楽しくて。一日の終わりだという時間がくれば、本当に淋しくて。 「もう帰ってしまうのか?」  そう言葉が口をついて出たのは、仕方のないことだろう。彼女がいなければ、ここには何もない。自分一人が取り残され、昼とも夜とも知れない時が過ぎるだけ。  シーリーンはしばらく、まじまじとこちらを見ていて。はっとしたように首を横に振る。その顔を真っ赤にしながら、「ごめんなさい、カースィム様」と呟いた。 「私たち末端の神は、夕刻になるとそれぞれの神殿に戻り、直属の上位に当たる神のお世話をすることになっているのです。ですから、ここに留まることが出来なくて」  落ち込んだ顔をしているのだろう。シーリーンが申し訳なさそうに言うのを、無理に笑って「そうなのか」と応えた。これ以上、彼女に迷惑をかけるわけにはいかないから。  ただでさえ、今ここでこうして目覚めていられるのは彼女のおかげである。淋しいなどと、そのような感情で振り回すわけにはいかない。 「気を付けてお帰り」  出来るだけいつも通りの、穏やかな口調を心がけて告げる。憐れみを司る神らしい、優しく、同情的な彼女に心配をかけないように。  シーリーンはその日も、カースィムの神殿から去って行った。こちらを何度も振り返りながら、その姿を消した。  誰もいなくなった真っ白な神殿は、あまりに静かすぎて。眠り過ぎて閉じる気配のない瞼を開けたまま、ぼんやりと白い世界を見つめていた。  それは、おそらく彼女を呼び止めた、その日のうちのことだった。静かな空間に、気配を感じてそちらに視線を向ける。  真っ白な柱と柱の間に現れたのは、なにやらいつもとは違う荷物を持参したシーリーンであった。すたすたと、いつも通りこちらへと向かって歩いて来る。とても楽しそうな顔で笑いながら。 「神殿でのお仕事が終わりましたので、抜け出して来ちゃいました」  「お布団と枕を持って来たので、ここで眠れますね」と、誇らしげに言う彼女に思わず笑ってしまう。最初に出会った時は随分と怯えていたというのに。今では自分を心配して、こうして忍んできてくれるとは。  なんて、愛おしいのだろう。  口に出さずに思う。愛らしく、可愛らしい。彼女と過ごすようになったこの三週間ほどの間に、何度そう思ったことだろう。  ふとした拍子に見せる仕種や、表情。楽しそうに笑って、寄り添って。その優しさゆえに自分を見捨てることの出来ない、愛しい女神。  本当ならば、切り捨ててしまっても良いはずなのだ。約束したとはいえ、毎日彼女がこの場を訪れる必要などない。ひと月が経った頃に顔を出して、眠るように促せばそれで良いはず。  いくら絵のモデルなどと言っても、何度も繰り返し自分を描く必要なんてないのだと、分からないはずもなかった。それなのに、彼女は毎日ここを訪れる。孤独に過ごすカースィムが心細くないように。そんな彼女を、愛おしく思わないはずがないのだ。  けれど。それを、口に出す気は毛頭なかった。  あと一週間もしたら、また永い眠りにつく。自分の自己満足のような告白で、彼女を煩わせたくはなかった。  願わくば、永い眠りから覚めた時に、また出会えたら良い。過去を司る神でありながら、そんな未来を、夢見た。  シーリーンはそれから毎日、カースィムの元で眠りにつくようになった。カースィムの足元に横になり、くうくうと寝息を立てる姿があまりに愛らしくて。この身体が動いたならば、その頬に触れることくらい許されただろうかと、そんなくだらないことを何度も考えた。  おそらくそれが出来たとしても、自分はそれをしないだろう。永い眠りについた自分を見て、彼女の心が傷つくことのないように。それだけが、カースィムの心からの願いだった。  そうして一日、また一日が過ぎていく。残酷な程、確実に。想像していたよりもずっと早い終わりの訪れに怯えながら、しかしそこから逃げることなど出来るはずもなく。 「明日で、最後ですね」  足元でシーリーンが淋しそうな声で呟くのを聞きながら、無理に笑って頷こうとした時だった。  神殿の中を、たくさんの足音が響き出したのは。 「ああ、本当だ。本当に目覚めていた」  なだれ込んでくる、真っ白な鎧を纏った何十もの兵士たち。物々しい雰囲気に、シーリーンが怯えた様子でその場で立ち上がり、身を竦ませる。  かつん、かつんと、一際大きく響く足音と共に、聞こえて来た声。さっと端に寄った兵士たちの間を歩いて来る、金の短髪の男。 「久しぶりだな、弟よ」  彼はそう言って、その垂れた赤い目を笑みの形に歪めた。 「下位の神たちが何やら騒ぎ立てて来たのだ。どこぞの感情の一欠片が、おかしな動きをしていると」  かつん、かつん。男はすぐ目の前まで来ると、その視線だけをシーリーンへと向ける。「お前のことだよ」と、彼は優しい声で言った。  「わ、私は……!」と、恐怖に染まった顔で、彼女は言うけれど。男は気にも留めていない様子で続けた。 「以前は週に一度、様子見に行っていたが、最近は毎日足を運んでいる。その上、夜も密かに姿を消しているようだ。部屋にあった絵には、目の開いた神の姿が描かれている。不審に思って跡を付ければ、時影の神殿に向かった。時影の神殿で何か起きたのかもしれないが、監視役の神からの連絡は、何もない」 「僕が、脅したからだ」  不穏な空気を巻き散らす男に、カースィムは静かに告げる。嫌な予感がした。ぞわぞわと、背筋を走る不快感。  男はちらりとこちらに視線を向け、「まあ、そういうこともあるか」と呟いた。 「だが、この世界の未来を無くす、即ち、未来を司る俺を殺すという予知を受けた我が弟を野放しにするのは許されない。自分の命を捨ててでも、報告すべきだった。そうだろう?」  にこ、にこ。全く笑っていない目で言い、男はシーリーンへと再び視線を向ける。その手を伸ばし、彼女の頭を鷲掴んで。  「何を……!」と、カースィムが声を出した瞬間の事だった。ぐらりと、彼女の身体が頽れる。力なく、地に座り込もうとした瞬間。  砂のように、崩れた。 「……何、が……」  何が、起きた。  呆然と、彼女が纏っていた服だけが落ちる地面を凝視する。今、何が起きたのだ。自分は今、何を見たのだ。  思考が止まったカースィムに、男はくつくつと笑う。「何を驚いている。弟よ」と、楽しそうにさえ聞こえる声で。 「時を早めて、土に還しただけだ。従わない者を、生かしておいても意味はない。感情の波の一つなど、放っておけばまた生まれる。どうでも良いことに気を取られる所は、昔から変わらないのだな」  当たり前のように、男は言う。彼女の、シーリーンの死を、何でもないことのように。  息が、止まりそうだった。新たな神が生まれるから、殺しても良いと言う。神という存在は、そうかもしれない。けれど。  シーリーンは、もう二度と目覚めない。 「……なんて、ことを」  目頭が熱くなるのは、彼女がいなくなったことが哀しいからか。それとも。  彼女を奪われたことが、悔しく、怒りに満ちているからか。  男はカースィムの感情になど興味もないようで、今しがたシーリーンの命を奪った手を伸ばしてくる。先程と同じように、今度はカースィムの頭を、鷲掴むようにして触れた。 「俺や主神と並ぶ神格を持つ、ゼッル・ワクトよ。お前を眠らせることが出来るのは、俺か主神しかいないからな。……全く、手間をかけさせないでくれ」  そう言った彼の手の平から、何かが流れ込んでくるような、そんな感覚があった。カースィムの自我や、五感を呑み込むような、おぞましい感覚。ゆっくりと、それに囚われそうになって。  なぜ、と思った。なぜ、このような者が敬われ、生きて、彼女が命を失うのだ。優しく、穏やかな、感情の波。  なぜ、なぜ。 「……ああ、分かった」  ふと、腑に落ちてそう呟いた。腹の底に溜まる怒りが、じわりじわりと足元から抜けていく。  目の前の男が、急に呟いたカースィムに驚いたようにその目を瞬かせた。 「急にどうした。弟よ」 「やっと、分かったのだ。予知は、正しかったということを」  シーリーンは、信じられないと言っていた。けれど予知は、嘘でも、冗談でもない。それが今、分かったのだ。  じわり、じわり。世界が歪む。何がどうというわけではない。何かが、少しずつおかしくなる。  異変を感じたらしい兵士たちが、視線を彷徨わせながら、「カーミル様」と小さく呟いた。 「わ、私の、我々の、身体が……!」 「……何?」  カーミルと呼ばれた男が振り返る先を見遣る。先程のシーリーンと同じように、少しずつ崩れていく兵士たちの身体。  それはもちろん、目の前のカーミルや、カースィム自身もまた、例外ではなくて。 「……貴様、何をした」  自分の身体の異常に気付いたカーミルが、こちらを睨み付けながらそう口にする。思わず、笑った。  シーリーンを無意味に亡き者にした者が、何を言うのだろうか。 「皆のために眠ることを、僕は拒否しない。……だが、最も護りたい者がいないのならば、無意味だろう」  だから、戻すのだ。世界を。  頬にするりと、雫が零れていく。彼女が存在しない未来など、護る意味などない。  彼女が存在する、世界へ。  過去を司る僕には、それが出来るだろう。 「ふざけるな! まさか、そんな、予知は……!」  この世界の未来を奪うという予知。カースィムが眠りについた、その原因。  にっこりと、カースィムは笑った。崩れていく世界を見ながら、最後に呟いた言葉は。 「また会おう。兄上」  きっと何度も口にしたであろう、再会の言葉だった。  するりと、頬に流れる何かの感触で目を覚ました。おそらく、眠っていたのだろう。何かが軋むような、そんなかすかな音が聞こえた気がした。  未来亡きここは、時影の神の楽園。愛した者に出会うため、永遠に回り続ける、彼の愛しい牢獄だ。
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