虫けら

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 何事も案ずるより産むがやすしで、生まれて初めての塾さぼりは滞りなく上手くいった。  それなりに緊張はしている。帰ったら親に怒られるのだろうとも思う。それでも少なくとも今は、びりびりとした手触りの、爽快感のようなものがある。  今、僕は、スマホに入れていた電子書籍アプリで漫画を読んでいるわけだが、それはあくまでも手持ち無沙汰だからそうしているだけで、内容なんてあまり理解できていない。  学校帰りの小学生が数人ちらほら遊んでいる、小さい公園のベンチでくだを巻いていると、汗がにじんでくる。まだまだ暑い。手の甲で額の汗を何度も拭う。  よく考えると無理に公園にいなくても、冷房のかかっている本屋とかに入ればいい。でも、中々踏ん切りがつかない。人のいそうなところは何となく避けたかった。どれだけ解放感に満たされていても、結局僕はまだまだびびっているのだ。  右耳に不快な音。右手で鼓膜を破らないぐらいの勢いで耳付近を叩く。だが、手を見てみると、いない。ただ、恐らく別と思われる蚊が左腕に吸い付いているのが見えて、そちらは仕留めることができた。血を軽く吸われた後だったようで、広げた右手の中には蚊のひしゃげた死体と血が残っている。  何となく気持ち悪くなって、僕は近くの水場に歩いていく。子供用に作られているのであろう、低いところにある蛇口を回すと、生ぬるい水が出てくる。蚊と、血を洗い流す。死体は排水溝に流れていく。少し嫌な気持ちになる。それがトリガーになったのか分からないが、不意に今日の嫌な記憶が蘇ってくる。 「最近集中できてないぞ。T大を目指しているんだろう?」  怒鳴り声になるちょっと前ぐらいの声量で、担任、佐川は僕にそう言った。 「自分で立てた目標だろう。守れなくてどうする?」  それは確かに佐川の言う通りだった。学年の初めに佐川は全員を前にして、自己紹介の時に自分の志望校を宣言しろ、と言ったので僕は深く考えることもなくT大の名前を挙げた。  だが、結局半ばその場のノリで言わされたものでもあるので、あまりそこでねちねち言われるのも、もやもやするのだ。 「何だ、その顔は? 言いたいことでもあるのか?」  学費を払っているのは僕の親で、あんたはその金を受け取っているだけの、教育サービスの提供者でしかない。ファーストフード店の店員が、客に対して説教をしますか?  そんなことを言いたくなったが、結局それを言っても火に油を注ぐだけで、それこそ親でも呼ばれたら面倒臭いだけなので僕は黙りこくった。沈黙を勝利として受け取ったのであろう、佐川の勝ち誇った顔にグーパンを入れなかっただけでも、僕は成長したと思う。  そんでもって逃げるように学校を出て、今、こんなところにいる。  成績不振の原因は分かっている。別に勉強をさぼっているわけではない。日々の予習復習はきちんとしているつもりだ。夜は真っ暗になるまで塾に行っている。いや、今となっては『行っていた』か。しかし最近どうしても身が入らないのだ。  集中力が、続かない。何が引っかかっているのか分からないが、中学時代のように前のめりでいくことができなくなっている。テキストを読んでいる時も、いつの間にか眺めているだけになっていることが多いし、問題を解くときの手は無意識のうちに止まっている。  勉強の才能。そんなものが枯れたのだろうか? 「いや、違うか…」  再び元のベンチに座って、電子書籍を眺めるだけになっていた僕は、ボソッと呟く。そんな話ではない。才能なんて高次元の話は不適当だ。というか勉強に限った話ではない。電子書籍アプリで確認できる既読箇所は、最近、あまり増えない。今日に限らず、漫画すら満足に読めなくなっているのだ。  少し疲れた? なるほど、感覚としてはこれが近い。だが、だとしたらその疲れた状態はいつまで続くのか? どうすれば解消されるのか?  親も、祖父、祖母も全くあてにならなかった。相談してもガラクタみたいな返答しか来ないのは経験上分かっている。頑張れ、負けるな、ライバルと戦え。夢に向かって。  何故少年漫画は勉強の邪魔だと言って、否定するのに、言うこと全て少年漫画じみているのか、意味が分からない。結局都合がいいから、それらの物の考え方をつまみ食いして、利用しているだけなのだ。  あほくさ。  漫画を非常に遅々とした速度で、それでも何とか頑張って読み進めていると、SNSからの着信が来た。中学時代に作ったグループチャットからで、少しだけ違和感を覚えながら確認する。 『久しぶり。急にごめん。ちょっと悩んでて。美野里への誕プレ、何がいいと思う?』  知るか。スマホを思いっきり地面に叩きつけたくなった。一瞬、山本からの嫌がらせかと思ったぐらいだ。  返信をしばらく迷う。彼氏の学力、と書いてやろうと思ったが流石に嫌味ったらしいのでやめておく。 『ごめん。ちょっと分からん。ただ、彼女、陸上今でもやっているんだったら、それ関連でいいんじゃない?』  精一杯考えてこの程度のことしか返信できない。部活関連の物なんて、本人の使い勝手によって本人が選ぶだろうから、このセンスのない意見を山本が取り入れるとも思えないが、まあ、取り入れてくれたら嬉しい。それが原因で、2人が離れてくれたら、より嬉しい。  まるで抵抗なくするりと生まれてきた、自分の考え方にぞっとする。おい、ばか、やめろ。声に出してそう呟く。あまりにも、不穏当すぎる。いくら彼女のことを自分が好きだったとしても、山本が邪魔で邪魔で仕方がなかったとしてもだ。  山本は同性の僕から見ても、非常にいいやつだったと思う。確かに勉強はできないが、底抜けに明るい奴だったし、僕みたいなひねくれ者とも話してくれるという意味では人格者でもある。  だから、彼女が選ぶのは道理である。そもそも僕は彼女に対して、なんもアプローチをかけていない。山本に過度に苛つくこと自体、筋が通っていない。買わない宝くじは、当たるはずもない。  蚊がまた顔のあたりをぶんぶん飛んでいる。手を動かして、それを振り払う。ったく鬱陶しい。今自分の中で浮上して、その姿を露にしようとしている記憶と同じぐらい、鬱陶しい。 「医学部はやっぱりいいぞ」  数か月前までいた塾の講師、落合が言っていた言葉。今はもう別の塾に移っているから、顔を合わせていないが、こいつの顔だけはまだ、たとえ思い出したくなくても思い出せる。 「合コンに行っても、女の子の見る目がやっぱり違うんだよな。文学部や理学部の男と一緒に合コン行ったことがあるんだが、視線の向いている数や質が明らかに違う」  地元国立の医学部に通っているそいつは、前から鼻につく奴ではあった。偏差値こそ全て、という価値観を何の躊躇いもなくがんがんに披露し、学力が高くない人間に対しては攻撃性をむき出しにしていた。  ただ、もしかしたら、塾生を発奮させるためにそういったキャラを演じていたのかもしれない。  だから、志望校の割には学力の足りない山本に対して説教している時も、山本が微妙に涙ぐみ始めた時も、本当は、心を痛めていたのかもしれない。知らないけど。 「昔の友達とかと会っても、何となく自信を持っていられるし。ああ、あと、車だ。親に車、買ってもらったわ。元々そういう約束だったからな。まあ、とにかく勉強したら、それなりの対価はやっぱりあるんだわ」  教室の空気は最悪だった。未知のエイリアンが無力な人間を食い散らかしているのを、見つめることしかできない時のような空気。そんな感想を抱いたことだけは鮮明に覚えている。確かにこの頃僕たちは、長い高校受験対策によって少々中だるみしていた。だから恐らく、落合はそれを締め直したくもあったのかもしれない。  だからと言って山本を過度に個人攻撃するのは、何の合理性もないが。 「でも、お前には無理だろうね。なりたいものも、やりたいこともなく、日々ダラダラしているお前なんかじゃ」  太ももをぴしゃりと叩く。あまりいい記憶ではないから、その刺激で強制的に意識を外に向かわせる。でも、怒鳴りつけられている山本を僅かでも、ださい、と思ったことだけは、中々忘却の海に沈め直すことができない。  今となっては、完全に立場が逆転しているのも、辛かった。  高校受験に失敗した山本は、それでも同じすべり止めの高校に通うことになった、美野里と付き合い始めて、幸せそうにしている。  片や、あの時、山本を内心見下していた自分は、勉強も中途半端、友達もいない、理解者もいない、解決策もない、という絶不調状態である。  禍福は糾える縄の如し、とはよく言ったものだ。合格発表の時にリビングで両親と喜びを分かち合ったことが、信じられないぐらいだ。 「まあ、いい」  少しでも前向きになろうと、あえて声に出す。最近この言葉を何度も何度も自分に言い聞かせている気がする。もがいているのだな、と自分のことなのに他人事のように判断する。どうしようもなく溺れているのは、自分なのに。  それで、結局のところ、自分はどうすればよいのだ?  高校に入った後で、目標が無くなって、大学受験という新たな目標も、中学時代のようにすんなり飲み干すことができなくなって挫折しかけている。  何度も何度も考えて、この現象が起きていること自体は、そういう時期なのだろうな、と思えるようになっている。親や教師や世間から提示された課題を、そのままこなしていくというのは、むしろ自我が発達していないからこそできるのであって、つまり高校に入ってぐらいから、僕は健全な成長を遂げた、ということなのだろう。  成長として捉えて良いのなら、この変化は望ましい。だが、その後が見えてこないのだとしたら、大問題だ。  塾に向かうモチベが無くなったために、公園でくだを巻くのなんて、精々許されて3回までだ。早いうちに何かを始めなければならない。だが、何でもいいわけではない。少なくとも自分が納得できるものでないとならない。  なりたいものもなく、やりたいこともなく。  落合の言っていたことが、また脳裏をよぎる。心中で、悪かったな、とぼやく。でも無理もないだろう? 高校生の僕では、自分の将来や適性のことなんて、分かるはずもない。社会にある役割の中で僕がなりたいものなんて、ない。どれもこれも大変そうだからだ。  あえて自分の願望を言葉にするなら、ずっと子供部屋にいたい。それが一番楽だから。許されるはずもないけど。  いつしか周りは暗くなり始めていた。まだ夏の余韻が残っている季節だが、それでも徐々に日没までの時間が早くなっている。夜になってから、公園で1人でいるのも何となく怖いので、僕は立ち上がる。さて、これからどこで時間を潰そうか?  そんなことを考えながら、歩道に向かい歩いていると、芋虫と雀がアスファルトの上で争っているのが見えた。灰色の地面の上で、緑色の芋虫は必死に身をよじって抵抗していて、対する雀は余裕綽々と言った体で、それなりに鋭い嘴を、芋虫に向かって何度も振り下ろしている。勝敗がどうなるかは、見てみたくもなかった。  きっとこの後、芋虫は徐々に抵抗をする力すらも奪われていくのだろう。僕は逃げるような早足になって、公園を出る。あと1時間もしないうちに、夕方は完全に夜へと変わる。そのことが、何故だか本当に苦痛に思えた。
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