Let it go

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Let it go

「Let it go」  好きな人の寝息を隣で聞きながら、その日を振り返ることより贅沢なことはない。 今日は少し複雑な気持ちなのだけど。 聞こえてくる規則正しい寝息と、オレンジのランプシェードから漏れる明かりが日記をつけるのに、最適な環境を作っていた。  私はいつも1日の終りにベッドの上で日記をつける。 日記をつけるようになったのは、彼に出会ってからだった。 二人に起こる小さな感情の行き来も、見逃さないで書き留めていきたいと始めたものだった。誰に見せるでもなく、ただ自分の記憶のために。 残すことに依存して、残してあることに安心を覚えるのはどこかに自信がないからかもしれない。  枕の下から白い表紙の日記を引き出す。彼もそのことは知っているだろうけど、気付かない振りを通してくれている。彼からしたら、自分が寝たあとに恋人が日記を綴っていることに幸せを感じているのかもしれない。 ランプの明かりが眩しいのか、彼は寝返りを打ち、背中を向けた。規則正しい寝息は続いている。  今日の日記は隣で寝ている彼以外のことになる。書こうか書くまいか少し考えあぐねる。この日記帳は彼との出来事を綴っていこうと決めたものだから。 日記帳の今日の日付を飛ばしたところを見たとしても、この日のことは綴らなくても思い出してしまうんだろうと思った。  今夜は高校時代の同級生の結婚式の二次会で、新郎新婦が同じクラスの出身者だったために、パーティーは同窓会と化していた。と言っても、私は高校時代の途中から大学を卒業するまでアメリカに留学をしていて、留学中は高校時代の友人達とも連絡が途絶えてしまっていた。  招待状が届いた時、12年ぶりとなるのによく私にたどり着いたものだと感心したものだ。行くか迷ったが、これを逃すとそのまた12年後になるかもしれない。無視するべきじゃないような気がした。  大学卒業後の私は、空白を持った人になってしまった。もちろん、海外で生活することによって、外側から自分の国を見ることも私にはいい経験となったし、国籍に関係なく魅力的な人たちにも出会えた。視野も広がったと思う。 なのに、私にある空白というのは埋まらない。何故だか置いてきぼりにされてしまったような錯覚に陥り、それはアメリカに当初行った時の不安ともホームシックとも違う、別のものだった。何に自分が属しているのかが分からず空回りしているようだった。属すべきものを持っていないのはちょっとしたコンプレックスで、いつまでも私につきまとい、苦しめた。私は私なんだ。それ以外の何者でもないじゃない。そう自分に言い聞かせる。  始めはアメリカ滞在も1年だけの予定だった。結果的に5年いたことになるが、もし当初の予定通りに、約束していた通りに、物事を進めていたら私は置いてきぼりになどならなかっただろうか。  自分の決心が未来を変えていくものなんだな。当たり前のことを思った。 本当はそんな空回りしている時期にこそ会いたかった。昔から知っている友人に...自分をよく知ってくれている人に迎え入れて欲しかった。だけど私は、変わってない部分も変わった部分も全部受け止めてくれるような友人を失ってしまっていた。  失ってしまった友人の中に10年以上も気になっている人がいる。日本、と聞いただけで一番に結び付けてしまう人。  それは留学前に同じクラスだった男子生徒だ。一応私たちは、付き合っていたと言えるはずだ。告白して、両思いになった。一緒に登校したし、一緒に帰った。一緒に勉強もしたし、一緒にふざけあった。会っても会っても足りないと思ったし、相手も同じだと疑わなかった。    彼のぶっきらぼうさの中に二人にだけに通じる暗号が漂っている気がして、読み取るのに必死だった。私も同じことで、いつもご機嫌でいるよりも、たまに怒って見せたほうが彼にとって付き合いがいがあるようだから、怒ってもないのに、拗ねて見せたりした。  彼の出す暗号を私が読み取る。私が出す暗号を彼が読み取る。たまに食い違いもあったみたいだけど、それも恋の一部には違いなかった。 彼を幼いな~、と感じたこともある。どうしてもっとリードしないんだろう、と腹立たしくも感じたことがある。同級生なのに、年長者のように振舞って欲しいと願ってみたり、それは彼らしくないし、彼の情けないようなところも好きなのに、と思い直してみたりが始まり出した頃、私の予てからの念願だった留学が決定した。  私は彼をテストした。 「ずっと前から行きたい、と思ってたの。行こうと思うんだ。勇樹はどう思う?」  勇樹は初め、その報告を心底驚いていたようだけど、あっさりと背中を押す側に回ってしまった。 「すごいじゃん! おめでとう。で、いつから行くの?」  その時の私の落胆ぶりといったらなかった。彼にショックを与えられなかったことがショックだった。 「行くとしたら、結構すぐなの。来月」 「ふ~ん。で、いつ帰るの?」  帰り、という言葉がすぐに出たのが唯一の救いだった。勇樹は待っている、という暗号を散らしたんだと私は信じた。  結果的に、私たちの関係はその後たったの数ヶ月で、高度1万メートルの気流にいとも簡単にかき消されてしまった。 彼に今度会うときは、見違えるような女になっていたい。 私の恋愛の対象は相手が誰であれ、結局はいつだって勇樹だったのかもしれない。  勇樹と連絡が途絶えてしまってからは、他の友人との連絡も取らなくなった。私たちの付き合いは公認じゃなかったから、何も知らない誰かが悪気もなく、例えば勇樹の新しく出来た彼女の話題とかをしてくるかもしれないから。彼が何事もなかったように、高校生活を楽しんでいると聞くだけでも私を打ちのめすくらいショックなことだったから、彼女が出来たとなると自分がどうなってしまうか分からなかった。  5年後に帰国した時も、勇樹のことはずっと気になったままで、少し大人になった私は、勇樹に誰か大切な人がいたとしても、構わないから逢いたかった。今何をしているのかが気になって仕方なかったし、自分が好きになった人が5年経ってどう変わったかを見たいと純粋に思った。連絡できないことはなかった。疎遠になっていたとしても、共通の友人は同級生だったよしみで何人もいるし、勇樹の実家の電話番号も住所も知っていたし、高校に行けば卒業者名簿を見せてもらうことくらいできたかもしれない。でも私はそのどれもせず、偶然を待つのみだった。二人がまだどこかで繋がっているんだとすれば、何も働きかけなくても逢えるんじゃないか、と真剣に信じた。  それが今日だったのかな。私はひとりごちる。帰国当初からだと、そこからさらに7年が経ってしまった。私の20代が終わろうとしている。  二次会の為に貸切にしたレストランで、懐かしい顔ぶれが集まっていた。  夫婦になった同級生カップルを見るのはなんとも不思議な気持ちだった。 幹事と司会をした具くんが、写真を取り込んだヒストリービデオまで作成して、なれ初めから何から全部話すと会場はものすごい盛り上がりを見せた。二人以外のクラスメートも写真の中に登場するものだから、懐かしさもある。久々に見た12年前の景色だった。昔の写真は見ないようにしたつもりなのに、思いっきり見入ってしまった。一人だと感傷的になりがちだが、同じ時を一緒に過ごした仲間といるのは温かい。こういうところがまだ私に残っていたなんて、新鮮でもあった。  私も今まで疎遠になっていた友人達と会ったばかりなのに、女子のグループと一緒になって、先週も会っていたかのように声を上げて笑った。BGMも当時流行った音楽ばかり。よくここまでやるもんだ、と感心もした。  新郎の吉田くんと、ずっと逢いたくて気が遠くなりそうだった誰かが話している。  同じ時間の同じ場所にいる。歩いて近づける位置にいる。目がカチリと合った。 「あれ? チーじゃん!」  そう言ったのは、吉田くんの方だった。きっかけをもらって、二人に近づく。 「おめでとう。驚いたよ。吉田くんとみのりが結婚なんて」 「あ、そう? 俺ははじめっから結婚するならみのりと、と思ってたんだけどね~」 「その割には何回別れたんだよ」  勇樹が会話に加わってきて、久しぶりに聞いた声にドクンと胸が鳴る。体格が少し良くなったような気がする。首の辺りと、肩の辺り。視界に映る勇樹は大人になっている。  ビュッフェ形式のパーティースタイルで、各々好きなテーブルについて、久々に顔を合わせた同級生と忙しく近況を報告し合っている。 「ねぇ、吉田く~ん、ちょっとみのりと並んでよ! 写真、写真!」  女子のグループに吉田クンが引っ張られていって、私と勇樹が残された。 「料理取ってきてやるよ。チーの好きな唐揚げあったぞ」  ポケットに手を入れたまま顎で料理の並べられたテーブルを促し、勇樹が言った。勇樹から12年振りに私に掛けられた言葉が、唐揚げあったぞ、だなんて。かしこまるのが苦手な勇樹らしくて、高校時代にフラッシュバックした。  さっき女子のグループと一緒にいるとき、勇樹は神戸のスポーツ用品のメーカーに勤めていて今日はわざわざこのために上京してきたこと聞いた。まだ独身だと聞いてホッとしてしまう自分がいた。  料理を山盛りにした皿を両手に持って、勇樹が戻ってきた。 「すごくいっぱい取ってきたね」  食べ盛りでもあるまいし、と笑いたくなる。 「探そうと思ったんだけど・・・」  私に皿を渡しながら勇樹が言う。 「唐揚げなら乗ってるよ」  私が言う。 「そうじゃなくて・・・チーのことだよ」  勇樹がそう言って、注意して聞かなければいけないと反射的に感じた。表にそれを出さないように、私は心を静かにさせた。 「大学時代にニューヨークに2回行ったよ。金を貯めては行って・・・と言っても貧乏旅行だったけど。お陰でちょっとは詳しくなったよ。でもさ、一人で行くもんだから、その時付き合ってた彼女に不振がられてたなぁ」 「ニューヨークに来たことがあったんだ・・・・知らなかった」 「実は一人で行った理由はさ、チーに逢えるかもしれない、ってどこかで思ってたんだよね。ほんの数分でもチーに逢えたら、ニューヨークに行く意味があるような気がしてさ。ニューヨーク歩いてる日本人っていっぱいいるのな。行っただけで逢えるはずないか・・・」 「ニューヨークが一目で見渡せる小さな公園だとか思ってた?」  どう反応していいか迷ったとき、私は素直ではない方に転んでしまう。 「若かったのかな。チーがアメリカで再会できたら素敵だって手紙に書いていたことが忘れられなかった、というのもあるかもな」  私たちは遠距離恋愛をする恋人が誰でもするように、文通をしていた。電子メールなんてない時代で、それしか手段がなかった。手紙は来たら、すぐに返事を出す。ルールを作ったものの守られたのは半年足らず。私は勇樹からもらった手紙を1通を除いて全部捨ててしまった。最後になってしまった1通。次の手紙に期待するように、と書かれた手紙をもらったままの状態で私はずっと止まっていた。  17歳の頃、勇樹から来る手紙がどれだけ待ち遠しいものだったかを知って欲しかった。それほど待っていたのにどうして出してくれなくなったのか、手紙を出すのを止めてしまったのは勇樹の方だったくせに、どうしてそうやって、逢えもしないだろう私を探しに一人でニューヨークに2度もくるなんてことやったのか、聞きたかった。  だけど、私はさほど驚いたようにも見せず、ふ~ん、などと言って勇樹のした行動を飲み込んでしまった。その大学時代の彼女とどうなったのか、今は誰か大切な人がいるのか、質問攻めにしたかったが、この場所でそんな話は不似合いなような気もして、差し障りない世間話や他の同級生たちや当時の担任の話題に塗り替えた。  みんなが私と勇樹を輪の中に入れようと呼んでいる。ゲームが始まるみたいだ。二人で話せる時間がもう終わる。ただの同級生に戻る時がやってきた。  私は思い切って切り出した。 「人と人との巡り合いって太陽を中心に回る惑星みたいだなって思わない?ほら、惑星が何年かに一度、並ぶときあるでしょ?」 「惑星ねぇ」 「人の場合は、回っているのは太陽の周りじゃなくて、運命とかでさ。その運命を中心に回っている沢山の惑星の中の二つだけが並ぶのが、巡り合いなんじゃないかなぁ。回るスピードがそれぞれ違かったり、人生に山があったり谷があったりするから、時にはゆっくり回ったり、止まりそうになったり、速くなるときもあったりして、実はもう少しで並べそうだったのに、また距離が広がることもあるかもしれないし・・・」 「結局一人で回ってるってこと?」 「そうとも限らないよ。例えば私たちの場合、はじめ並んだのは高校の時。短い間だったけど、しばらくは一緒に回ってたんだと思うの。でも同じスピードで回ってても外側を回る方はハンデを負うよね。どんどん距離が開いちゃった。でも、でもだよ。もしまた何かの偶然で並ぶことがあったならその時は素直に認め合おうね」 「認め合う?」 「うん」 「何を?」  キョトンとして勇樹が言う。しょうがないな~、と思うけど、そこが勇樹らしかった。暗号どころか、直球のつもりだったのに、勇樹に分かるのは何光年先だろう。 「別になんでもない。でもその時、私は偶然やってきた運命を認めるよ」 「いくらだって、チーにスピードに合わせてやるのに」  分かってるのか、分かってないのか、読めないところが勇樹の困ったところだ。 「合わせるんじゃなくて、自分のペースで回っていながらにして、他の惑星と不思議と並ぶことがある、というところがポイントなんだけど」 「難しいな、チーの言うことって。でもそういうとこチーらしいよ。変わらないな」  私は失笑した。私はどっちに予感を転がしたらいいか迷う。  具くんが、手を入れられる穴が上部に空いたカラフルなボックスを持って、みんなのところを回っている。その中にグループ分けをする色紙が入っていて、一枚ずつ引くと、私はピンクで、勇樹は黄色だった。 「違うグループだね」  私と勇樹はそれぞれのグループのもとに別れた。グループ対抗クイズの問題は全部出身校にまつわることだった。久しぶりにみんなが高校生のようにはしゃいでいた。自分に戻れた気がする夜だった。自分に戻ってから、帰るべき場所に帰った。私も、勇樹も。  帰宅してから、しばらく手にとってなかった本を出して、ソファーに深々と身を沈めてしげしげと眺めた。真っ赤な表紙の単行本。アメリカにいるときの友人に、大人になったら読んでみて、と言われて貸してもらったまま、いつの間にか私のものになってしまっていた「ノルウェイの森」だ。  私はまだ1ページも読んでいない。  大人になったら、という前置きに遠慮していたのもあるけど、唯一手元に残した勇樹の手紙を挟んであるからが理由だった。  鉛筆を一本ペンたてから取って、落書きをした。本の表紙の内側に日本の地図。ここで私たちは出会って、再会した。裏表紙の内側に、アメリカの地図。ここに私がいて、勇樹は探しに来てくれた。また逢うとしたら、どこになるだろう。  カバーをしてしまうと、どちらも見えなくなった。  この本を読み終わったら、手放してみようかと、ふと思いついた。もともと私のものではなかった本だ。この本を手放して、どこの誰の手元に行くか分からない。この本をいつか古本屋で見つけた人も運命を中心に回っていて、どこかの誰かと並んで一緒に回っているのかもしれないと想像すると楽しい気分だった。そして、どこの誰だかも分からない見ず知らずの男女がすれ違ってばかりいるのをこの落書きと挟まれた手紙を見て気付くのだろうか。  またいつか、私はこの落書きのある本と巡り逢うかもしれない。 またいつか、私は勇樹と再び並んで、スピードが自然に合っていって、いつまでも一緒に偶然やって来た運命の周りを回っているなんてこともあるかもしれない。  今日はそんなことがあった一日だった。私は何も書かずに日記帳を元の位置に戻して、隣にいる彼のゆっくりとした呼吸を聞きながら次第に夢の中に入っていった。
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