可能性の隙間

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可能性の隙間

「可能性の隙間」  通っているジムで顔見知りになった溝内さんに、スカッシュをした後でお茶でもしましょうと誘われた。というのも、先々週ジムであったときに、最近村上春樹にはまっているものの『ノルウェイの森』をまだ読んでいないと聞いて、持ってるから貸すということになっていたのだ。  溝内さん、とさんづけで呼んでいるがはっきりした年齢は知らない。20代半ばかもしかして前半かもしれない。軽く見積もっても一回り程下かな、というところ。私と歩いていても恋人と間違う人はいないだろう。会社の後輩か、年の離れた弟か従弟にでも見られるのがいいところだ。  私は、ロッカールームに戻ってシャワーを浴びた後、彼とジムの目の前にあるスターバックスに入った。喫煙者の彼のために外の席に向き合って座り、バッグから『ノルウェイの森・上巻』を出し、差し出した。  この本は普段小説などという類をほとんど読まない私が、夫の愛読書を読んでみようと買ったものだった。愛読書というからには、夫は上・下巻で持っていたはずだが、彼の書棚には初版本下巻だけがあって、私はその下巻とペアになるように、初版本にこだわって古本屋を探し回ったのだ。私が彼を理解しようと勤めた努力の跡とも言えるものだった。苦労して捜し求めて買ったものの読まずじまいのうちに、私たちは4ヶ月前に別居した。    夫婦の関係は目立って大きな問題があったわけではないが、小さなほころびが目立ち始めて、繕っても繕っても間に合わなくなってきた。別居するその日にはじめてページを捲った時に、前の持ち主のものと思われる手紙が挟まっているのに気付き、表紙の裏に落書きがあるのを見つけた曰くつきの一冊だ。  私は溝内さんにどうしてこの本を買ったのかを話す流れとして、夫との別居についても触れた。家族にも職場にも別居のことについては話していない。なのに、なぜか溝内さんには絡んだ糸をするすると解かれるように話せた。  暗黙の了解の恋愛対象外というのは楽だ。恋愛感情を抱き始めて、好奇心で一杯になった相手よりもずっと素直に自分をさらけ出せるのは、見栄が消えている証拠だろう。 その本にまつわる話を少しずつ話し始めながらラテを啜ろうとしたが、猫舌の私にはまだ熱く、体を温めるためというより手を温めるためのカップになった。 「それでこれがその本なんですか」 「そういうこと」  溝内さんが、興味深げに赤い表紙のカバーを捲って落書きを眺めていた。 表紙のカバーをとった裏側に、日本地図があり、真ん中のあたりに星印がついている。そして、背表紙側のカバーをとった裏に、アメリカ地図の落書きがあってと矢印がひっぱってあり“Me”と書かれている。この落書きの意味が分かる文通していたのだろう、日本にいる男の子がアメリカにいる女の子宛てに書いた20年前の夏の日付のある手紙が挟まっていた。  溝内さんは、薄い2枚の便箋に書かれた手紙を読んで、 「どうなっちゃんでしょうね、この二人・・・」 と、つぶやくように言った。 本に挟まっていた手紙の内容は別れ話などというものではなく、一時離れ離れになってしまった恋人に男の子が近況を伝え、また手紙を書くという言葉で締めくくられている。    ただ、どうしてその手紙を挟んだままその本を持ち主が手離したのか分からない。文通が途切れたのか続いたのか...見知らぬ二人の過去の話でこちらは知る由もない。 つぶやいた後、溝内さんは続けた。 「この本読んだのってつい最近なんですよね。なんで買ったときすぐ読まなかったんですか?」 「初版本にこだわって、古本屋を探したんだけど、手に入れたのは探し始めて随分経った時だったの。読みたいというより、夫の持っている初版本の下巻の片割れ探しを一生懸命探してたという感じだったのかな・・・。で、見つけたらそれで満足しちゃったのかも」 「下巻は、だんなさんが持っているんですよね。どうして下巻だけだったんだろう?」 「上巻を誰かに貸してそのままになっちゃった、っていうのが本人の言い分」  溝内さんは、肩をすくめた。 「この本はあぶれちゃったわけですかね」 「そういうこと」  私と溝内さんは、夫の持っている下巻とペアになれずにあぶれてしまった上巻を眺めた。  沈黙があって、手に包んでいたラテを啜る。熱かった時は舌をやけどしそうになり、温かかったうちに一口も味わわなかったトールサイズのラテ。今はすっかり冷めてしまった。もっとおいしかったはずを想像しながら、口に含む。 「どうして、と思うことがいっぱいあって、混乱しちゃうな。でもどうしてだかなんて、その時の当人だって分からないこともありますよね。僕も過去にありますよ。伝えそびれて、損しちゃったことって」 「損?」  そこで溝内さんは頭を掻いて、 続けた。 「どうも適当な言葉が思い当たらないんですけど、自分にとって不利益なことというか・・・。あ、また不利益なんていうといい例えじゃないのかな・・・。そんな硬いことじゃないんだけど、なんというか、そういう意味をなしていないつもりなのに、自分で自分の望んでいない道を結果的に選んでしまうのがいわゆるすれ違いというかボタンの掛け違いとでもいうのかなぁ、なんて思って」  彼が「僕も」と先に言ったのは、夫と別居することになった私に言ったのか、それとも、この古本に挟まった手紙の男女のことを言ったのかははっきりしなかった。 「伝えそびれたことってどんなこと?」  私はすかさず聞いた。 「なんだかおかしいんですけど、自分の恋愛史に残るような大きなことなのに、随分長いこと忘れていました。この本に挟まっていた手紙を読んで、フラッシュバックしたみたいに思い出したんですよ。昔こんなことあったなって」 「話して」 「いいですか、つまらないですよ」 「OK。つまらない話ね。楽しみ」  溝内さんは、プレッシャーだな、と頭を掻きながら始めた。 「初恋って覚えてます?」  確かに恋愛の話を聞く準備は出来ていたが、その質問の唐突さに、驚いてうまく言葉が返せなかった。 「どうかな・・・」 「僕は初恋を2回しましたからよく覚えています」 「それって、初恋って言わないんじゃない?」  笑いながら返したが、彼は至ってまじめに返した。 「2回という言い方が悪いかな。同時に二人にしたというのが正しいかな。変ですか?」 「そうねぇ。純粋なようでいて、不純も少し混じっていて、でも人間らしいというか、男の本能からなのか、その先を聞くまでは変かどうかは言えないけど」 「ですよね。いや、実はこの一方の恋を僕は人に話すときの初恋と言っていて、もう一方の恋の話をするのは初めてです。でも、なんでだか榎本さんには自然に話せるような気がして」  それは、さっき私が彼にならするすると話せると感じたことと一緒だった。 「少なくとも、私がどう感じようと、溝内さんのこれからの生活には影響しないものね」  厭味ではなく、これは素晴らしいことだ、という意味で言った。 上下関係があるわけでもない。横のつながりがあるわけでもない。赤の他人でもないが、これといった固定概念や先入観も持たずに、接した部分だけの印象がそのままの目の前の存在になる。 「いや、これで変な人だと思われたら、もうジムで会ってもスカッシュはおろか、挨拶もしてくれないだろうな。だとしたら、僕にとって大きなリスクですけど」  溝内さんはそう言いつつも、目が笑っているところを見ると、私に同感しているのが見て取れた。 しゃべりながら煙草を1本取り出して、肩をすくめて火をつける。白い煙が風の向きで私のほうに流れたのを、溝内さんは、手で遮って、「僕がそっちに座ります」立ち上がりかけながらそう言った。 「あ、いいの、いいの。私も1本もらっていい?」  席を移ろうと腰を上げた彼のテーブルについた手に触れてそう言った。彼はさっと、手をどけて、代わりにたばこがあと、数本残っているボックスを差し出した。1本取って、銜えたら火をつけてくれた。  溝内さんと同じステージに立って話を聞いて見たくなって、吸わないたばこを指に挟んですこしふかしてみる。 「たばこ吸うんですか?」 「今だけね」 「似合わないなぁ。榎本さんは、オーガニックなイメージなんだけど、まあ、いいや。えっと、僕の初恋は2回だったというところを話したんですよね」 「そうそう」 「中学から高校になるころだったかな。初体験はもうしたかって男子の間ではその話題ばかりでしたよ。焦りも少しはあったかなぁ。好きだからエッチしたいのか、それとも性への興味に勝てないから対象となる女の子を好きだと思い込んでいるのか分からない時期があって・・・。あ、大丈夫です? こんな話」 「これって、初恋の話だっけ、初体験の話しだっけ?」  私たちは、笑った。同世代の女の子にこんな話はしないのだろうな、と思うと、こういう話が聞けるのは役得なのだろうと思えた。 「ま、一緒だとしたら一番いいんでしょうね。初めて好きになった相手と、初めて経験する。実際僕は運よくそうなれた」 「初恋が実ったってわけね」 「でも、さっき言ったみたいに、好きだからしたいのか、それとも、経験したいから好きだと思い込んでいるのかは確信なんてないんですよ」 「そうねぇ」  そういえば、好きな人に裸を見られるなんて、死んだ方がましだ、と真剣に思っていた時期があった。顔を見て、同じ空気を吸って、言葉を交わし、時々手が触れて、それだけで舞い上がってしまうほど好きな人に裸を見られるなんて、恐ろしい行為だと思った。誰か別の人に見てもらって「悪くないよ、君の体」と言ってくれたら好きな人に見せられると本気で考えたことがある。  初めての相手になるはずだったボーイフレンドにOKを出さなかった理由は、ただ恥ずかしさが好きな気持ちより勝っていたからで、他に理由なんてなかった。 溝内さんの話を聞く限り、その当時のボーイフレンドも、もしかすると好きだという気持ちよりも、セックスに対する興味が勝っていたのかもしれないわけだ。 「でも、する前には確信がなかったけど、僕は彼女と経験することによって刻印を押し合ったような気持ちになったんです “僕は君の最初” “君は僕の最初” そうしたら、急に愛情が芽生えてきたんです。周りの男友達は、いろんな女の子と関係を持つファンタジーを抱くけど、僕は違ったんです。彼女をずっと守りたい。関係を持ってやっと本当の初恋の人になったような感じでした。それからは四六時中彼女のことを考えていましたね」 「同級生とかだったの? かわいかった?」 「中・高一貫教育だったんですけど、同じ学校の1つ先輩でした。きれいでしたよ」 「へぇ、ませているのね。男の子が先輩と付き合うなんて」 「初めてやるなら、年上がいいって、仲間にそそのかされたんです」 「あらまぁ」 「きっかけは、知っている先輩に彼女のメールアドレスを教えてもらって、さも用事があるかのようにラブレターの5段階前くらのメールをしたんですけど、アドレスを打ち間違えて誤送信しちゃったんです。でも、別の誰かに届いていて『人違いじゃないですか?』って返信してきてくれたんです」 「へぇ」 「僕は、間違ってますよ、って教えてきてくれたことに感動を覚えたんですよ。だって 当の彼女に無視されたんだって勘違いしたら、絶対に落ち込んでいたし・・・。それで、感謝の意味もあって、自己紹介も含めてそのメールの主に返信したんですよ。誤送信したのは好きな人に宛てたメールだったとか、そういうことには触れずにですけどね」 「で、その誤送信先の相手はどんな人だったの?」 「アメリカにいる日本人の高校生の女の子でした。すごい確立ですよね。間違って送ったメールが、海の向こうの日本人で、それも同じ年頃の子のところに届くなんて」 「運命感じちゃうわね」 「そうなんですよ。まさにそうでした。でも複雑ですよ。学校に行けば、好きになった子がいて、もしかして告白すればうまくいくかもしれない。そして、家に帰ってメールをチェックするとアメリカに住む女の子からのメールが届いている。アメリカに住んでいる女の子は、メグミといって、アメリカではMegと呼ばれていたそうです。僕はメグ・ライアン見る度に彼女を思い出してましたよ」  彼は、テーブルに指でMegと書いた。 「日本にいる彼女はなんて子だったの?」 「智子」 「メグちゃんに智子ちゃんのことは触れずじまい?」 「うーん・・。悩みましたね。メグとは、メールだけの付き合いで、リアルに会う機会なんてないんです。バッタリ会う可能性もない。だからいくらでも演じようと思えば演じられる。でも彼女が、アメリカでの高校生活がどんなものであるかとか、今日何があったとか、食べたものとか、見たものとか、何でも書いてきてくれるようになってきて、なんだか唐突にこっちが好きな人の話を書くのはおかしな気がして・・・。それに僕が特別に思っている人が他にいることを書いたら、メグのメールが来なくなるんじゃないかと思った、というのもありますね。ずっとメグとの可能性の隙間をキープしてました」 「メグちゃんとの恋がもう一つの初恋?」 「そういうことです。メグが詩を書いてくれたことがあって、内容は、日本にいるあなたと、アメリカにいる私の時間の差は、永遠に縮まることはなく、アメリカにいる私があなたの半日後ろを、歩き続けるだけ・・・という感じだったかな。そんな切ない内容のメールがメグから来たのは初めてで、メグからの告白のようにも感じました。メグが日本に来ることもない、僕がアメリカに行くこともない。二人が近づくことはない。だけど、僕は二人の間の時間が永遠に縮まらないなんてことはないよ、と伝えてあげたかった。飛行機に乗ってどっちかが、会いにいけばいい。二人の中間点で落ち合ったっていい。でも高校生の僕には、そんなことムリな話で、出来たとしても数年後の話でした。本当のこと言うと、メグと僕の間には、時間の隔たりはなく、いつも一緒の時を過ごしている錯覚もあったんですよ。お互いに、見たことのないものや知らないものを見せてあげたい、という気持ちでメールを通して伝え合ってました。会ったことはないけど、一番近い存在になってましたね」 「そのメグちゃんとはどうなったの?」 「詩をもらったあとに、いつもどおりのメールの中にまたメールするって書いたんだけど、それっきり。いくらなんでもおかしいと思って、こっちからメールを送ったんですけど、僕が今まで送っていたメールアドレスはもう使われていないようでした。あちらからのメールを待ち続けるしかなくなってから半年経って、やっと忘れられました。そして彼女からもらったメールも、僕が送ったメールも、全部消去したんです」 「なんで? 半年経って何かあったの?」 「メグとメールが途切れてから半年後が僕の誕生日だったんですけど、僕の誕生日になったらメールじゃなくって電話するっていうのが、まだメールを出し合っている時の約束でした。電話はとうとうなかったんです。智子に『付き合いたいならはっきり言って』なんて言われたっけな」 「でもメグちゃんの電話を待ってたんだ」 「ということなのかな。その日智子といても、携帯の電源は切りませんでした。僕は可能性の隙間をキープしたままでした。でも掛かってきてたら、智子との先はなかった。まあ、智子とも彼女が高校卒業するときに別れちゃったんですけどね」  彼は苦笑した。 「初恋の話をする前に、伝えそびれて損したことがあるって言ってたわよね。それは、メグちゃんとのこと?」  彼は、冷え切ったはずの、コーヒーを啜って、たばこの火を消した。 「僕はメグが書いてくれた詩について、詩なんて書くなんてロマンチストだね、とか茶化したようなことを書いて、その詩を読んで本当に感じたことを何も伝えなかったんです。告白を無視されたように感じたのかもしれない。だから、僕がなんてことない内容のメールだけ送ったことに、彼女は踏ん切りをつけたのかなっていうのが、今の僕の解釈。素直にその詩に対して僕が思ったことを書いていたら、今頃メグとどこかで一緒にいたかもしれないと思うこともあります。知らないうちに、別れ道の選択を僕はしてたのかな。真相は知りませんけどね」 「写真とかはないの?」 「文字の羅列の交換だけです。でも、彼女とは顔も見たことがない、声も聞いたことがないのにメールだけの付き合いだったとは感じないんですよ。僕の中では秘密の大切な大切なソウルメイトでした。手離しちゃいましたけどね」  どうしてだかなんて、その時の当人だって分からないことがある、と彼が言っていたのを思い出した。 「今、メグちゃん何してるかしら」 「実は彼女の苗字も知らなかったし、アメリカの細かい住所も知らなかったし、なんだか今となっては、彼女は本当に存在していたのかなぁ、なんて思うこともあるんです。本当は高校生なんかじゃなくってすごいおばさんだったりして。あ、すいません」 「ちょっと、失礼ね~。私への当てつけのつもり?」 「いえいえ。そんなんじゃ。あはは」  彼は、20年前の男の子が書いた手紙を折りたたんで、もう一度本に挟んだ。 「初恋の話をありがとう。ねぇ、良かったらこの本もらってくれない?」 「苦労して探した本じゃないですか」 彼は少し驚いたように言った。 「うん。でも夫の下巻には別のペアがあるみたいなの。だから、この本はもうちょっと旅をしないとね。この本にとって溝内さんは、旅先としてはぴったりのようなの」  彼は納得するように、何度か小さく頷いた。  赤い表紙のノルウェイの森を両手に持った溝内さんを見て、私はやっと歩きだせる気がした。 「あ、そうだ。私たち、苗字だけしかお互いのこと知らないわよね。私、美和っていうの。美和さんってこれからは呼んで」 夫の苗字の下に隠れた本当の自分を声に出して言えた気がした。 「みわさん・・ですか。始めは慣れないかもしれないけど、頑張ります。僕は、溝内要です・・・って、改めてだとなんだか照れますね。あ、すっかり遅くなっちゃいましたね。送りましょうか? 車をジムの駐車場に止めてますからちょっと待っててもらえれば・・・」 「ううん。歩いて帰れるわ。またね、要くん」  あの本が旅をしていつかペアを見つけてくれればいいな、と要くんの背中を見て思った。  そして、あの本と同様に私も旅をする。私は、真冬の空気の中を颯爽と胸を張って歩いた。私はその空気を切って歩く自分が好きだな、と思えたことが嬉しかった。                  a pair ~いつか巡り合えう偶然に~  了
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