お元気ですか?

1/1
前へ
/5ページ
次へ

お元気ですか?

前略  お元気ですか? チーが去ってもう3ヶ月になるんだなー。早いな。 俺はなんも変わってないぞ。そっちはどうだ? もう英語ベラベラになったか?  太ってまるい先生は元気か? そういや、吉田とみのりが付き合ってるみたいだぞ。チー知ってたか? 俺全然知らなくって目が飛び出たよ。けんかするほど仲がいいってホントだったんだな。 でもさ、チーと俺がこんな文通してるのも多分みんな目ぇ飛び出るかもしれないよな。 人のこと言えないか・・・  悪い、書くことあんまりないんだよ。でも書くよ。短いとチー怒るしな・・・ 期末・・・最悪だった。もー忘れてー。部活・・・地区予選止まり。以上が現在の俺。あ、まだあった。グッピーと一緒にバイト始めた。本屋の店員。あれってさー、力仕事も結構あるんだよ。それに立ちっぱで疲れる・・・。っていいこと何にも書いてないな。 チーの生活は新しいことだらけみたいだな。9月からは学校も始まってもっと忙しくなるな。がんばれ!  俺はチーが元気に帰って来てくれたらそれでいいと思ってる。毎回書くなって感じかもしれないけど、それだけだ。一年遅れるの気にしてるみたいだけど、浪人するやつだっていっぱいいるんだから、どうってことないと思うよ。 俺も多分浪人するし。  来週俺は片柳とグッピーとおのっちと海行く予定。女子も来るらしいけど、メンバーは知らない。伊豆で片柳のおばさんが民宿やってるらしいんだ。別に心配することじゃないよ。だから書いてるんだけど。多分、次の手紙にはそのことを書くことになると思う。 今回のよりは楽しいこと書けると思われるから楽しみにするように。  草々 ‘87 8・5     勇樹 「人の手紙読んじゃった」  買ってきたものの手をつけていなかった古本に、水色のうすい便箋が挟まっているのを今になって気がついた。神保町の古本屋で見つけた<ノルウェイの森・上>の初版本だった。  その手紙は、48ページのところに挟まっていた。薄い無地の写し紙のような便箋(罫線を記した下敷きかを下に引いて書くタイプのものだ)で、エアメール用のものらしかった。私も昔ペンパルなどというものを持っていて、エアメールで手紙を送った経験はある。便箋は空港運賃をなるべく安くするためなのか極々薄くできており、封筒は赤と青の斜め線が周りをふちどったものを使った。その手のタイプではないと、海外には届かないと思い込んでいた。たった一人のペンパルのために束になったのを買った覚えがある。  この便箋を使っていることと、手紙の内容を照らし合わせると、チーという子は手紙の日付の3ヶ月前に海外に行ってしまったのだろう。学校に通い、日本に帰るまでにはしばらくあるらしい、と読み取れた。 「読むなよ、人の手紙なんて」  夫に言われて、ムッとする。 「だって、買った本に挟まってたんだもん」 「買った本になんで人の手紙が挟まってるんだよ」 「古本なの。前に持っていた人が挟んだまま売りに出しちゃったんじゃない?・・・日付も1987年」  やっと夫が関心をもったらしく、手紙を覗きにきた。 「ひゃー。この人たぶん俺らと同い年くらいじゃないの? この人多分高校生だろ、この感じだと。その当時って俺らも高校生だったよなぁ」 「うん・・・高1? 2?」  夫と私は同い年で大学の同級生だった。 「あれ? ノルウェイの森じゃん。こういう小説興味ないとか言ってたのに、古本屋なんかで買ってたんだお前」  手紙だけを見ていた夫が、真っ赤な表紙のその本に気付いて、意外そうに私を見た。   我が家にも<ノルウェイの森>あった。夫がもともと持っていて上・下揃っていた。愛読書となっていて、何回も読み返していた。それに引き換え私は本を読み返す習慣がない。一度読んだらそれっきり。本を所有することもよっぽどじゃなきゃしない。所有することに興味がなかった。読んだら、売る。を繰り返すだけ。小説の類よりは啓発本のようなものが好きだった。図書館の借りて返すというシステムはすばらしいが、啓発本の類は近所の図書館にはほとんどなかった。  その私が、あるきっかけがあり、夫がそれほどまでに固執する本を読んでみようと思うようになった。しかし、夫が持っていた<ノルウェイの森・上>は人に貸されたまま戻ってくることはなく、本棚に残ったのは<ノルウェイの森・下>のみ。また上・下を仲良く並べてやりたい気持ちもあり、古本屋を探した。夫の手元に残っていた<下>は初版本だった。出来ることなら同じ時代のものでペアを作ってやりたい、となんだか躍起になっていた。  この本を探していたことも、やっとのこと探し当てて初版本を見つけたことも、夫は知らない。私は、時間のあるごとに随分あちこちの古本屋を回ってやっと見つけたのに、手に入れたことに満足してしまって、1ページも読んでいなかった。 「結局読んでないの。興味ないものはだめみたい。読んでみよっかなー、とは何度か思ったんだけど・・・」 「で、初めて開いたのが今、ってわけ?」  窘められるように夫に横目で見られる。 「そ。それで、この手紙をみっけた」  二人でもう一度、水色の便箋を眺める。 「筆跡から言うと・・・この勇樹ってのはあんまり勉強してなかったタイプだな」 「なんでそんなこと言うの? 本屋でバイトするような男の子なのに」 「字は体を表すっていうだろ。こいつは既に浪人宣言しているし。堅い線だと思うよ」 「名は体を表す、でしょ?」 「そうだっけ」  夫は頭を掻いた。  筆跡にその人となりが表れるというのも面白い見解だと半ば関心しながら、勇樹少年の字を眺めてみる。辺と辺が交わらず、止めも跳ねもない抑揚のない字だった。なるほど、これが勉強してなかったタイプの字と言われるのか。私は、よく日に焼けて勉強は二の次になっている勇樹少年像が浮かんだ。 「でも・・・なんでこの手紙を出さなかったのかしら。ここにあるってことは、そういうことでしょ? それとも下書きのつもりだったのかなぁ」 「どこに挟まってたんだっけ」  夫はしばらく黙って、手紙の挟まれていた48ページを読み返していた。私は、この本の大体のあらすじさえもろくに知らない。48ページは第三章の始まりのページで、直子という女性と主人公の<僕>がデートをした、ということが書いてあった。 <たぶんデートと呼んでいいのだと思う。それ以外に適当な言葉を思いつけない> と1行目から二行目にかけてあった。 「懐かしいな・・・。最近読み返してなかったから・・・」  夫はもう、本の中に入り込んでしまっていた。 「あなたの<上>はどうしたの? 貸したまま返ってこなかったじゃない」 「俺の<上>? あぁ、そういやそうだ」 「あんなに何度も読んでたのに・・・。いいの?」 「ただの本だよ。別にいいさ。何百万部も世に出回ってるんだぜ。珍しくもないよ」 「でも初版本じゃない」 「これいいよ、って何度薦めても『興味ない』だった癖に、そういうところだけは見てたんだな」 「初めて旅行に行ったとき、一緒にいるのに電車の中でも部屋でも読んでたじゃない。あなた自慢してたもの。俺のはちょっと違うぜ、初版本なんだぜって・・・」  夫は苦笑した。ただの本だよ、ただの本。それを繰り返した。 「ところでこの勇樹くんはさ、この本をチーちゃんに手紙と一緒に送ったのかな。例えばバイト先の本屋さんで買ってさ。だとしたら、チーちゃんは帰国してから勇樹くんからの手紙も本に挟んだまま売っちゃった・・・ってことかしら」  この真っ赤な本が行くべきところを失くしてしまった迷子に思えた。その迷子が縁あって我が家に来た。勇樹の1987年8月5日を連れて。 「どうだろう・・・。もし、手紙と本を一緒に送るんだとしたら、一文くらい何か入れるだろ。追伸とかでさ。でも何もないじゃん」  夫は首を捻ってから、本の一番最後のページを見る。そして、ほら、とでも言うように私に見せた。第一刷発行は1987年9月。手紙の日付の一ヶ月もあとだ。 「そっか、この手紙と一緒に送ったわけじゃないのか・・・」 「俺が思うに、勇樹はさ、手紙書き直したんじゃないの? もうちょっと楽しい内容でさ、他の女子との関係を心配させるような伊豆旅行のことももうちょっと濁してさ。それで書き直した手紙を送って、またチーから返事があって、また手紙書いての繰り返し。しばらくしてチーが日本に帰って来て、めでたし、めでたし」 「めでたしなのに、この本を手放しちゃうの?」 「もう充分読んだから必要なくなったんだよ。お前だって読んだ本はすぐ売っちまうだろ?」  私は腑に落ちなかった。 「書き直したとしても、挟まっていたのは8月5日の手紙ってところが変じゃない?」 「知るかよ。まったくの他人の過去のことなんて」 夫はもうどうでもいい、というように私に赤い表紙のその本を戻した。 「途中まで興味持ったくせに」 「じゃ、お前の予想は何なの? 俺のめでたし論では不満なんだろ?」 「勇樹くんとチーちゃんのどちらがこの本の持ち主だったと思う?」 「つまり、この手紙を挟んだまま売ったやつはどっちかってことだろ」 「そう」 「勇樹だとしたら、この手紙を挟んだ48ページまでしか読めなくて断念した跡だな。送ろうか迷った手紙に最後まで読みきれなかった本。それで古本屋に売っちまう」 「チーちゃんに書き直した手紙と一緒に送ったんじゃなかったの?」 「チーねぇ。そうか・・・チーだとしたら、日本で当時流行ってた本を送ってもらうんだな。ま、それは勇樹でも勇樹じゃないとしてもいいんだけどさ。チーの愛読書となるんだけど、勇樹からの手紙を挟んだまま何年も経ってしまう。いつしか帰国して、もうこの本は必要じゃなくなり、古本屋に売る。勇樹の手紙を挟んであることを忘れて・・・って感じじゃない?」 「この手紙が勇樹くんから来た最後の手紙だったりして・・・」  夫は苦笑した。 「アンハッピーが好きなやつだな」 こんなときだからそう思ってしまうんだ、と私は夫を詰りたくなった。私と夫にとって他愛もない、と言われる会話の最後になるかもしれない。 この本のどこかに何か別の形跡があるか探した。パラパラめくったり、カバーをはずしてみたりしていると、鉛筆で書かれた落書きを発見した。それは2箇所に書かれていて、表紙の裏側のカバーに隠れていた部分に日本地図が描かれていて、その地図の真ん中の辺りに星印があった。もう一つの落書きは裏表紙の内側で、アメリカの地図が描かれていて右端の上の辺りから矢印が引っ張ってあって<Me>とあった。  私は、表紙と裏表紙のカバーに隠れた部分を夫に見せた。夫は、お、と小さな声を出し「チーが描いたんだろうな~」と地図をなぞった。 「間違って売っちゃって、探しているかもしれないぞ。今も勇樹とチーのカップルは健在かもしれないし」 「ほんとにそう思ってる? 結構ポジティブなところあるのね」 「お前は案外ネガティブなんだな」 「おあいにく様」  もし、夫の言うとおりなら、やっとのことで釣れた川魚だけど釣り針からほどいて放してやりたい気持ちにもなる。手放してやれば、いつか勇樹とチーのもとに泳ぎ着くかもしれない。 「どっちにしても彼女にあげるって内容の本でもないんだけどね・・・」  夫がつぶやいた。 「どんな内容なの?」 「読めばいいじゃん。せっかくここにあるんだからさ」 「あなたにあげようと思ったのよ。読み返すにしても<下>だけじゃ成り立たないでしょ。あなたの方の荷物に入れて、って言おうと思ってそれでこの本持ってきたの。そしたら手紙を見つけて読んじゃったってわけ」 「じゃ、逆に俺が<下>の方を置いてくよ。<上>だけ読んでその先知らない、じゃつまらないだろ」  夫は、緑の表紙の<ノルウェイの森・下>をダンボール箱から抜き出した。赤の表紙の<上>と緑の表紙の<下>はまったく同じ分厚さで、つややかだった。似たもの同士なのに根本的に何かが違うカップルのようだった。  私は複雑だった。夫は別居するため荷造りをしている。物事には距離や時間が必要な時がある。  結婚生活はうまくいっているはずだった。私たちはちょっと自由すぎただけだ。<自分の部屋>というのをそれぞれが有し、そこで寝ることも、仕事を持ち帰ってすることもあり、ダイニングや、風呂場や、トイレを共有するルームメイトと変わらなくなっていった。会話がなくなったことはなかった。だけど男と女であることも忘れかけ、そっちの生活はいつが最後だったのかさえ分からない。やっぱり夫には誰かいるのかもしれない。夫の持っていた本が戻ってこないことも、自分の好みを押し付けようとしなくなったところも、そう思わせた。価値観の合う誰かとの関係が存在しているのかもしれない。 男と女じゃなくなってしまった夫婦はどこに幸せを見出すべきなのだろうか。    見知らぬ同世代のはるか昔の恋の行方について、私よりはるかに前向きな意見を述べている夫が、私とのことになると別れて暮らすことで解決策を見出そうとしていた。それは前向きといえるのだろうか。 「自分のものは自分で持つようにしよっか。今までだってそうだったし」  私は明るく言ってみた。 「そうだな。読みたかったらまた古本屋で探してみろよ」  淡白に答えて、緑の表紙の<下>をダンボール箱に戻してガムテープで蓋を閉じた。  夫は<ノルウェイの森・下>の入ったダンボール箱を含む荷物と共に、まるで旅行に行くように去っていってしまった。あっさりしたものだった。世界の果てに行ってしまったわけじゃない。そう思うことで平静を保った。  私は、勇樹の書いた手紙をもう一度眺める。  <今回のよりは楽しいこと書けると思われるから楽しみにするように。  草々>  その一行は救いの一行に感じた。もしも勇樹の手紙をチーが受け取っていたとすれば。次がある、というのは待っているものにとっては一番の支えだ。  勇樹とチーはどうしているのだろう・・・。この本を置き去りにして。  泣きたくなった目に手元に残った真っ赤な表紙が痛かった。 私は、水色の薄い便箋をまた48ページに挟んだ。
/5ページ

最初のコメントを投稿しよう!

3人が本棚に入れています
本棚に追加