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3
善兵衛も気にかけてはいたが、ちょうど忙しい時期に重なり、あまり一人娘にかまっていることもできなくなった。
そんな時が、どれくらい続いただろうか……。
「奥さんがつわりで苦しんではって……」
「おつらそうだすな……」
そんな噂を耳にするようになった。
ーおとうはん、もうおかあはんのこと忘れてしまわはったんやろうか!ー
ー弟や妹ができたら、うちはどうなるん。要らん子になるんやろか!ー
その日以来、口をつけられる食事も、わずかになった。乳母は心配して父にも話をしようとしたが、その肝心の父は、お江戸のほうに出向いており、しばらく帰ってこないということだった……。
坪庭の金木犀が香るようになった。なみが来てから一年は経っただろうか。秋の穏やかな陽も、りんの心を和らがせはしない。りんが自室にいると、廊下をバタバタ走る音や、興奮した人の声が響いて来た。
―何があったんやろ……―
「大変や! 奥さんが産気づかはった!」
苦しそうなおなみの声も聞こえてくる。産婆も到着したらしい。「もう生まれたんか? まだか?」という、お江戸から帰って来たばかりの父の興奮した声も聞こえて来た。
「おとうはん……」
さすがの、りんも部屋を出て産屋に向かったが、みな慌ただしく、誰もりんのことは気にかけない。しばらくすると、産屋から元気のいい赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。
「男の子や! わしにやっと男の子ができたんや! おなみ、ありがとうなあ!」
そう叫んだ父は、涙を流していた。その涙を見た瞬間、りんは心の中で、何かが音を立てて切れたのを感じた。
―女の子やったら、あかんかったん?―
ーそれなら、うちはどうしたらええん?ー
その時から、りんは何も感じられなくなった。喜びも怒りも悲しみも楽しさも、ただ横を通り過ぎていくのだ。食事を見ると、前は父と二人きりで食べていたお膳を思い出してしまう。もうあんな日は戻らないのだと自覚させられてしまうのだ。何も喉を通らなくなり、水を飲むのも辛くなった。医者は気鬱の病だと言ったが、さりとて治す薬もないという。
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