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善兵衛となみの間に生まれた男の子は英治郎と名づけられた。初めての男子誕生のお祭り騒ぎが落ちついたころ、善兵衛はやっとりんの変化に気がついた。りんの目は虚ろで、やせ細った顔には表情がなかった。 乳母の話では、英治郎が生まれた日から、何も口にしていないという。水だけは、乳母がなだめすかして飲ませているというのだ。 「りん、おとうはんや、しっかりせい」 善兵衛が呼びかけても、りんは焦点の合わない目をして、善兵衛を見もしない。善兵衛は、息子が生まれた嬉しさで、娘を顧みなかったことを心から後悔した。 「なんぞええ薬はないのんか?」 「越中富山の薬も……。お嬢さんが飲まはらへんのどす」 「鍼、灸、加持祈祷(かじきとう)、なんでもええさかい試せ!」 普段は温厚な善兵衛が、人が変わったように激しい調子で叫んだ。だが、薬も鍼灸も加持祈祷も何の効果もなく、りんは痩せ細って衰弱した。 「このままでは、りんが死んでしまう! りんを助けられるものはないんか!」 その時、つきっきりでりんの世話をしている乳母が何か言いたそうにしている。 「お乳母はん、なんかええ知恵でもあるんか?」 「……、へえ、うちの長屋に住んでる男のお茶が、体にええと評判どす。そやけど、ほんまに効くかどうかは……」 「溺れる者は藁をもつかむや、その藁にすがってみよ。その男、呼んで来い!」
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