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想いが泡になる場所で
泡になった私の想いは、今日も静かな海中を漂う。
私を待つ貴方に届くと信じながら……
全身が小刻みに震えていた。ロープを握る両手が張り裂けそうなほど痛い。
しかし、ここで手を離したら、足元に広がる荒れた海に落下することになる。
「おい望月!早く登れ」
頭上の甲板から先輩隊員たちの怒号が降り注いだ。どこにも逃げ場がない。
海面から8メートル先の甲板の柵に結ばれた1本のロープ。それを腕とフィンをつけた足だけで上り切る。海上保安庁の潜水士の訓練だ。
潜水士は主に海難事故の救助にあたる。そのため、緊急時に海から甲板へロープ1本で上がる技術が必要だ。
沖縄の海域を管轄する海上保安庁の巡視船「しんじゅ」の潜水士に任命されてから約半年。
私はこのロープを最後まで登りきったことがない。昨日の訓練では6メートル付近で力尽き、弱々しく滑り落ちた。
今日もこの6メートル地点で腕に力が入らなくなり、前に進めない。
「海保の人魚さんはその程度なんだな!」
先輩の1人が笑いながらヤジを飛ばす。
――海保の人魚。それが私のあだ名だった。
私が海保の潜水士で唯一の女性潜水士だったから。
雑誌の編集者がつけたもので、船員にも広まっている。
今はまだ小馬鹿にする時に使われることが多い。
それが凄く、悔しかった。
歯を食いしばりながら、右手を勢いよく上に伸ばし、体を押し上げる。
24歳の女性とは思えないほど、鍛え上げられた全身の筋肉。全ての体の組織がアドレナリンを出し、私の体を上へと導く。
左手を上に伸ばし、一気に上に登る。
あと、1メートル。
腕の筋が浮き上がり、今にも破裂しそうだ。前髪から垂れた汗が目に入り、視界がぼやける。強風に煽られて体ごと左側に揺れながらも、腹筋を使って体を上に持ち上げた。
勢いよく船の甲板の柵を右手で掴み、甲板に倒れ込む。
8メートル、上り切った。
「おめでとう」
私のバディである上島先輩が爽やかな笑顔で駆け寄ってきた。私より3年上の先輩で、頼れる兄のような存在だ。
「ありがとう……ございます」
声を張ろうとしたが、掠れた声しか出ない。その声を聞いて、先輩が軽やかに微笑んだ。
「5分休憩したら再開するぞ」
「……はい」
肩で大きく呼吸をし、全身に酸素を送る。手足を甲板の上に投げ、夕方の淡いオレンジ色の空を見つめた。心地のよい風が海水で傷んだ短い髪を揺らす。
まだ小刻みに震えている両手をぎゅっと握った。
「私、登れたよ」
顔を左側に傾け、目の前に広がる青い海に呟く。
激しく押し寄せる波の水しぶきが甲板にまで届きそうだった。
ガサガサ。ザザザ。ザーザー。
甲板の壁に取り付けられたスピーカーから機械音が鳴り響く。
騒がしかった甲板が一気に静まり返った。
反射的に体を起こし、放送に耳を傾ける。
『人魚島沖南東5キロ地点で観光の小型遊覧船が沈没した模様。乗員は大人8名、子供1名。沖縄海上保安部巡視船しんじゅに出動命令』
放送を聞き終わってから、甲板にいた隊員たちと一緒に走り出した。
階段を上り、操縦室の裏にある会議室に向かう。
緊急出動命令は何度か経験があったが、今回はいつも以上に緊張していた。
――人魚島で海難事故。
あの日の出来事が走馬灯のようによみがえり、心臓がぎゅっと強く跳ね上がった。
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