喘息

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喘息

俺にとってこのトローチはお守りみたいな物で、美剣と離れた今も無くなると買ってきて肌身離さず持ち歩いている。 美剣は今も…元気にしているのだろうか。 実家を離れ引越した後、幾度となく手紙を送ったが、美剣からの返事は一度もない。 勇気をだして会いに行こうと思った事もあったけど、もう二度とあの家には近寄りたくなかったし、それにきっと返事が無いって事はからかわれていたんだろうと思う。 そりゃそうだよな、美剣が俺のこと好きだなんて… そんなことある訳が無いもん。 何となく昔のことを思い出しながら、バタバタと時間が過ぎていくと、日が陰り段々と雲行きが怪しくなってきた。 外に置いてある見本品などを店の中にしまい、傘立てを準備すると客足も徐々に減ってきて、今日は体調も微妙だし、早めに店を閉めようかと志乃さんと話していた矢先。 あっという間に外は暗くなり、アスファルトを雨が濡らしていく。 それと同時に俺の身体にも異変が起きた。 さっきよりも喉に重苦しさを覚え、呼吸が浅くなっていくのを感じる。 「ぼっちゃん、もう閉めましょ。吸入しに行ってください」 「ん…そうする…」 後のことは志乃さんに任せて2階に上がろうとしたその時、一組のカップルがずぶ濡れでお店の中に入ってきた。 「あっ、このお店よ!良かったぁ」 「いらっしゃいませ、あらあら…今タオルお持ちしますね」 「いや、お気遣いなく…」 志乃さんが店の奥にタオルを取りに行き、お客さんが来たなら仕方ないと、俺もその後ろについてもう1枚タオルを取ってそのお客さんの元へと戻った。 「はいはい、お嬢さんこれ使ってちょうだい!」 「あ、ありがとうございます!急に降ってきちゃって…でもここの和菓子が美味しいって聞いたんでどうしても買って帰りたくて」 「まぁ、ありがとうございます」 俺は必然的に彼氏の方にタオルを手渡そうと、何気なく彼の掌に目をやると、普通の人ではあまり見ない場所に豆が出来ている… 美剣もそうだった、そう思って視線を彼にあわせるとどことなく美剣に似てる…そんな気がして俺は彼を見つめたまま固まってしまった。 「ぼっちゃん、ここはいいのでもう上がって下さい!」 「…あ、あぁ」 志乃さんに促されても尚、俺は彼を見つめていた。 そして話に耳を傾ける… 「お客さん新婚旅行か何かですか?」 「あ…いや、僕らはそういうんじゃ…」 「あら、ごめんなさいね!」 「いえ、私たちもうすぐ結婚するんです!」 「あら良かった!おめでとうございます!」 志乃さんは、いつもこうやって誰かれ構わず話しかけては世間話で盛り上がる。 彼女は嬉しそうにショーケースを見ながらお菓子を選んでいて、彼の方はそんな彼女を愛おしそうに眺めているように見えた。 結婚、するのか…この二人。 そうだよな、普通の男だったらそれがきっと幸せなんだよな。 きっと美剣だって、とっくに俺の事なんて忘れて彼女作って結婚してるかもしれない。 昔の事をズルズルと引きずって、前に進めていないのは俺だけだ。 何も変わることなく動けずにいるのはたぶん…俺だけなんだと思う。 大きく息を吸い込み、はぁ…っと深いため息をついた時、それは突然始まった。 ひゅ…っと喉奥に冷たい空気が入り込むと、喉の奥が狭くなって息ができなくなり発作に変わって、立っていられなくなった俺はその場に膝をついてしゃがみこんでしまった。 「…っ、…はぁ…っ、はぁっ…」 「ぼっちゃんっ…!?ぼっちゃん、大丈夫ですか!?」 「…っ、へい…きっ…」 「徳さん…っ!ぼっちゃん発作!早くあれ持ってきて…っ!」 「なに!?わかった!」 苦しい…っ、みんなが動いてくれてるのはわかるけど、自分じゃ何も出来なくて、ただ必死に空気を取り込もうと藻掻くだけ。 助けて…魔法の、トローチ… 「…っ、し…のさ…っ、あれ…っ」 「今はダメよ!我慢して!」 「喘息の発作ですか…!?ちょっと着物緩めていいですか!?」 「え…?」 志乃さんが俺の背中をさすりながら、彼は俺の着物の帯を緩め始めた。 「僕、医者なんです。吸入ありますか?」 「あ、はいっ!今徳さんが…っ」 「いつもはどうです?吸入だけで良くなりますか?」 「あ…っ、えっとここまで酷いのは最近はなかったと…」 「…念の為、救急車呼んで貰えますか!?」 あ…この人お医者さんなんだ… 確かにちょっと今回のは無理かもしれない。 息が吸えなくて苦しいし…おまけになんか…意識が朦朧としてきた… 「志乃さん!吸入っ!」 「ぼっちゃん、息吸って!」 「大丈夫ですか!?ゆっくり、ゆっくり息吸って…っ」 彼の声が聞こえる… 自分では精一杯吸ってるつもりなんだけど、全然入ってくる気がしない… やっぱりトローチなんかじゃ、無理だったよね… こんな俺の事なんか、美剣はもう忘れたよね。
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